今日は飾磨の大和会館で増位中学時代の恩師 上山恭三先生(享年75歳)の告別式があり、参列してきました。

 

 

上山先生は昭和20(1945)年1月、宍粟市一宮町三方町の生まれ(旧姓 田川)。滝川高校、中京大学体育学部でバレーボールの選手として活躍。卒業後は兵庫県教育委員会に体育教諭として採用され、初任地の姫路市立的形中(現 大的中)を皮切りに、白鷺中、増位中、飾磨西中などで教鞭をとられました。

この間、各学校で男女バレーボール部の顧問を務め、熱心な指導で全国大会に出場させるなど赴任した学校をバレーボールの強豪校にしました。

全日本女子前監督の眞鍋さんをバレーボールの道に進ませたのは白鷺中男子バレー部の顧問だった先生であることは有名な話です。眞鍋さんは昨日のお通夜に来られていました。

担任の一言で、僕のバレー人生は始まった - [著]眞鍋政義
https://inumimi.papy.co.jp/inmm/sc/kiji/1-1067332-84/

増位中時代は女子バレーボール部の顧問でしたが、元旦でも練習があったほと熱心な指導でした。先生の年間の休みはほとんどなかったでしょうね。

当時、私は男子バレーボール部に所属しており、女子のように強くはなかったですが、部活に勤しんでいました。3年生になり、私達がチームの最高学年になった時に、よくおられた体育教員の控室に先生を訪ねたこと、30年前の話をいま昨日のように思い出します。

「なんや竹内?お前がこんなところに来るなんて珍しいな。何かあったんか。」「先生、体育館を女子バレー部ばかりが使うのはおかしくないですか?男子にも平等に体育館を使わせて下さい」。

男子バレー部は弱かったので体育館はあまり使えず、雨が降ったら練習が出来なくなる外のグラウンドのコートで練習することを余儀なくされていました。また、それが何年も続き当然のようなことになっていました。

とはいえ、男子バレーの顧問の先生から当時の(飛ぶ鳥を落とす勢いの)上山先生にそのような要望が出せる状況にないのも15歳の私にも分かっていました。なにせ、増位中の体育館に全日本の中田久美さん(現監督)らが練習に来たりとかしてましたから…。

そんな中での単独での直談判。私はキャプテンでもなかったですし、誰かに頼まれたからでもありません。当時の強面の先生の写真を卒業アルバムで見るとよく直談判なんてしたなと思いますが…。伏線がありました。
 

卒業アルバムの写真


先生は1年生の入学時からわたし達の学年の担任でした。私は担任してもらったことはないですが、体育の授業は受けていました。ある時にその体育教員室に呼ばれて、「お前に一つ頼みがある。今度のクラスはまだ若い先生やから何かのときには裏でクラスを支えてやってほしい。それでお前をクラスに入れた」と。

私、中学校時代は、先生がすることでもおかしい時はそれはおかしいとか、言いかねない雰囲気があったんでしょうね。今も同じかもしれませんが…。

そんな私の性格を見抜いたのか、上のような話をされました。それ以降、私のとった行動は、クラスが荒れかけたら融和に、どこかで先生を恫喝する生徒がいたら(当時はよくありました)、「お前、もうやめとけ」と。すっかり、先生の思うつぼになりました(笑)。正直、先生の話を意気に感じました。

昨夜、京都から駆けつけていたMちゃんと夜、先生を偲んで献杯しましたが、先生の思い出が同じような話だったので驚きました。先生が海外遠征先(女子代表チームに帯同したりすることもあったそうです)から、「俺の留守中、増位の女子バレー部を頼む」とMちゃんだけに手紙をくれたそうです。キャプテンでもないのに。やはり意気に感じた、と。上山先生、人垂らしやったなとMちゃんと共に確信しました(笑)。

先生に一人で体育館の利用時間を平等にして下さいなんて言いに行けたのは、生意気にも俺の話なら聞いてくれるかも知れないと思ったのかも知れません。

実際、「わかった」とすぐに体育館の使い方を改めて下さいました。数カ月だけでしたが(笑)。

先生は、その後、高丘中に教頭として赴任され、灘中、安室中では校長、そして姫路市立中学校校長会の会長を務められました。

また、定年退職後は、バレーボールの指導力を買われて姫路獨協大学女子バレーボール部の監督に就任。リーグ内の強豪校に育てるなど指導力を如何なく発揮されました。県立社高校や神戸朝高女子の指導もされていたと聞きました。

とはいえ、ずっと休みなく働いておられたことがたたったのか心臓を悪くされ、5度も心不全を起こし、ペースメーカーを入れる手術をされました。

 

増位中勤務時代の同僚で現 灘中の校長である勝目先生が白鷺中の校長に就任した際には、同僚の岩井先生らとともにお祝いするぞと言って一緒にご馳走になりました。この時、心臓のことでお酒をやめたので飲まない、と烏龍茶しか飲まれなかったので驚きました。お酒好きだったのに、心臓のお医者さんから「お酒をとるかバレーをとるか」と迫られて、「バレーをとった」んだそうです(笑)。

今年2019年のお正月には私の増位中の同級生たちの恒例の新年会を男子バレー部出身の藤田くんが経営する避風塘ふじたで開催し、先生をスペシャルゲストとしてお招きしました。同窓会の連絡の電話をすると「最近よく忘れるからハガキでも連絡してくれ」と言われまして、お送りしました。

新年会当日の挨拶の冒頭、「字の汚かった竹内が同窓会の葉書をくれたと思ったら字がきれいだったから驚いた」との話が出ました(笑)。すぐに「実は嫁さんに書いてもらいました」と釈明しましたが…。私が字が汚いなんてことを覚えておられまして驚きました(汗)。
 

2019年1月3日増位中新年会 上山先生をお招きしました(Web版ひであき日記)。
https://ameblo.jp/takesan110/entry-12430727692.html
※先生のご挨拶の動画もあります。

 

ふじたにて。たった10ヶ月前です。


同窓会から4ヶ月後の私の選挙の際には、最も重要な花北市民ホールでの総決起大会の応援弁士をお願いしました。事前に、先生のご自宅に弁士のお願いに行きましたら、『俺はお前の次の選挙には死んでるかも知れないからやる』と…。

 

「そんな冗談はやめてください」と笑って返したのがたった半年前です。こんな悪い話が当たってしまうのか。いまもって信じられません。

 

総決起大会での応援弁士


花北では、私の心の琴線に触れる亡き父が先生に支援のお願いに行ったときの話をされ、選挙にも関わらず、壇上で涙が溢れました。いまも各所で「竹内さんの選挙の恩師の話が良かった」と参加者の方からよく言われます。心のこもった16分間の応援演説を頂きました。

2019年4月4日 竹内ひであき総決起大会 上山先生に弁士をお願いしました。
https://ameblo.jp/takesan110/entry-12452175665.html

一昨日の夜、10月15日23時過ぎ、訃報が同級生から伝わり、確実か分からないという話でした。俄に信じられなかったので、夜分でしたが先生の携帯に電話しました。

奥様が出られて今朝の6時半になくなったと。そんなことってありますか…。

奥様から伺ったところ、4月以降、腎臓の状態も悪くなり、5月に人工透析をする為のシャント手術※を行い、翌月から透析を開始したが、7月には足が蜂窩織炎となり、足にコブができ歩けなくなり入院。点滴での抗生物質もあまり効かなくなり、手術。以降、食欲もなくなり、弱っていかれたとのこと。今月には再入院され、延命治療はしないという先生の方針もあり、10月15日朝6時34分、奥様も病室にいる中で眠るように亡くなったとのことです。

先生は最後の入院中、看護師さんにわがままを言ってよくナースコールをされ、看護師さんから奥様に病室に来てほしいと言われ、亡くなるときも奥様が病室におられたそうです。結果として奥様がおられるときに息を引き取られたのです。先生のことをよく知る、参列した女子バレー部員は最後まで「わがままな先生らしいな」と言っていました。

※シャント手術
腎不全が重症になると水や老廃物が体にたまるため、人工的に血液を浄化し水分を除去する人工透析を行う。透析する血液を多量に体外に導き出すため、シャントという特殊な血液回路を外科的に腕や手に造るのが「シャント手術」。

 

 

大和会館の葬儀場の入口には先生の初任地である的形中時代の指導風景のモノクロ写真が大きく飾ってありました。中には大的中バレー部の応援旗もかざられていました。初任地には昭和37年から51年まで14年も在職され、殊の外思い入れも強く、今年春の的形公民館での講演を大変喜んでおられたそうです。

 

平成31年4月的形公民館便り「漢詩を楽しむ」 頼山陽の漢詩をわかりやすく解説

https://www.city.himeji.lg.jp/bousai/cmsfiles/contents/0000004/4443/2019325132338.pdf

 

 

教え子の方の供花もたくさんありました。通夜の時にはお経が終わっても焼香する方が絶えませんでした。


中央に掲げられた遺影も先生らしく大変素晴らしいので、冒頭に使わせて頂きましたが、他の写真もあります。

 

キャンプですかね。ランニングシャツですね。
 
 
先生の向かいにいる右手前が私です。修学旅行の写真ですね。私の2人後ろにはクラスメイトの焼肉花田の奥野くんが写ってますね。
 
修学旅行で熊本の阿蘇に行ったときのフェリーでの先生方の写真ですね。現増位校長の浅井先生、灘の校長の勝目先生、白鷺中の現場におられる岩井先生も若いですね。小坂先生には7月のバーベキューにきて頂きましたね。



昨日の通夜の始まる前にお顔を見せて頂き、今日の出棺前には親族の皆さんと共に棺にお花をいれさせてもらって先生と最期のお別れをしました。涙が止まりませんでした。


過去には、離党した際も心配して下さりお電話を頂戴したり、自宅に呼ばれて、教育論を授けると言われてお話をお伺いしたこともありました。もうそんな声が聞けなくなるとは信じられません。

先生に最初に一人の大人のように認めてもらったと勝手に思っています。先生からは他にも大変励みになるお声掛けも頂きました。しっかり胸に刻んで仕事をしていきます。大変お世話になりました。本当にありがとうございました。合掌。


2014年11月8日。姫路駅前の街頭活動の際に偶然通り掛かって声を掛けて下さいました。
 

今年の春に私の同級生で先生の教え子が店長を務める眼鏡屋さんに来たときのスナップ。柔和な笑顔ですね。