中国人の始祖の神殿がいわきに | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

昨日は定例の竹内文書勉強会でした。テーマは上古2代造化気万男天皇の時代の記録でした。この時代は弟妹から五色人が生まれた時代です。その中に注目すべきことは磐城(イワキ)の国の神籠屋で磐古氏を産むという一文です。そう現在の中国人の始祖です。

 

磐城の神籠屋とは存在するのでしょうか?はい、存在するのです。今回の勉強会で思い出しましたが、我が家に高坂和導が書き残したノートが残っております。その1冊に昭和62年にこの地を現地調査した記録が残っていました。それを見てすぐに現地に私が飛んだのは2015年1月3日のことでした。1月1日のお正月のこの記録を発見したからです。

 

不思議続きのひとり旅でした。ノートに書かれていた地名を頼りに、タクシーに乗車。もちろんこのような古代の神殿は今では全くわからない存在となっていました。雲を掴むような話です。運転手さんに地名だけお知らせし、出発。そこは民家もほとんどない場所でした。その地域に行って、運転者さんはでは地元の人に聞いてみましょうと止まってくれました。そしてその家を突然、ピンポーンと呼び鈴を鳴らしました。何とピッタシカンカンカン、出てきてくださったご婦人は高坂和導を覚えていました。若い頃に、そんなことがあった。地元の人と東京からの人が来て調査していたって。もう亡くなったお姑さんが一緒に関わっていたと思うということでした。

 

そしてこの家の隣にはノートに記載されていた神殿の洞窟の鐘楼?が道路建設時に洞窟からレーン車で移動しようとした際に3つにわれ、その一部がこの家の近くの畑に置かれ、小さな祠が置かれていました。明治、大正、昭和の初めまでは地元の人々は厚く祭っていたとのこと。これはまさに古代からの遺跡である洞窟からの一部でした。では中国人の始祖が住んでいた居館とは一体どこに?まさに目の前の崖の山の中であることを御婦人に教えていただきました。

 

しかしこれは外から見ますと、樹々が押し茂っているので全く見えません。しかしここであることは間違いありません。必死の思いで草木を掻き分け崖を這い上がり、その洞窟に辿り着くことができました。息が止まるほどの人口の居館?(神殿)がそのまま残っていました。住まいだけでなく、ここは水神(龍神)を祀る場、神星人(異星人)を祀る場などが実際に残っていました。壁画には宇宙人とも中国人の始祖と思われる顔が明確に彫られています。道路からは全く死角となって樹々に覆われているので、誰も訪れる人はいないと思います。

 

ノートの見ますとここは5階建ての居館(神殿)であったようです。私が辿りつけたのは2階までです。写真も撮りましたが、玉響が沢山でていました。このことを私は6年間ずっと忘れていました。勉強会のためにここに意識が向いたために再び、思い出したというのが本当でした。今はどうなっているのかは不明です。お勉強仲間と一緒に今度行きましょうということになりました。

 

竹内文書の世界は資料で見るだけでは十分でないと私はいつも考えています。それを掘り下げて現地調査をすると本当にそのような記録を証明するものが残っているのです。単に偽書ではないのです。それを証明するにはやはり現地に出向き、自分の足で調査するしかないのです。紙だけの資料では説得力もないです。そんなスタンスで今は国内をまわっているのです。