お気に入りの大きな鏡のある神社 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

神社は日本のどこにもあります。大きな神社から小さな神社まで。私の生家から徒歩1分の所には大きな神社がありました。私の氏神様でありました。お宮参りも七五三もこの神社でした。そして小さい頃の私の一番の遊び場が神社でした。神社が古来、大きな敷地、豊かな樹木、種々のお社がありましたので、子供の頃はかくれんぼ、鬼ごっこなど体を動かして子供たちと遊ぶ場としては最高の場所でした。私の中にはそんな記憶があります。神社は地元の子供たちの最大の遊び場であったのではないでしょうか。

 

そして今はと言いますと、神社を訪れても子供が遊んでいる姿を全く見なくなりました。コロナ禍の問題前から、子供が神社だけでなく外で遊ぶ姿がめっきり少なくなったのは日本の社会構造の変化によるものでありました。鎮守の森である神社には、樹齢何百年、つまり創建当時からの大木がご神木として今でも祭られています。樹木は人間の能力をはるかに超えた広範囲でも仲間の樹木とのコンタクトが可能だと言われています。ですから、樹齢の古い樹木はずっとその場にいながら、ずっと人間の歴史を見て記憶し、そして遥かな地の樹木からも情報を得た非常に賢い存在であります。

 

私は時々、自宅から30分もかからない都内の神社に行きます。その神社のご祭神などは全く気にしていませんが、都会の駅からすぐ近近く徒歩1分です。私はいつも高台にあるその神社へは川べり沿いの横の階段から上がっていきます。途中には樹齢600年以上と言われる銀杏の木が祀られています。秋になりますと黄色く色づき、今でも元気満々です。

 

そしてこの神社の本殿にご挨拶に行きますと、かなり距離があるのですが、本殿の奥深く中央には大きな鏡が飾らています。遠くの鏡に足元を除いてほぼ私の全身が映し出されます。神社の本殿、神棚にはどこでも鏡が置かれていますが、私がしばしば足を運ぶ神社ほど自分自身が映し出される神社はないのです。そのために私がこの神社がとてもお気に入りで、ご挨拶に行くのです。つまり「我の中に神あり」ということをいつも思い出させてくれる場所だからです。このように神社の本殿にそのまま自分自身が映される神社はとても珍しいのです。