縄文遺跡発掘中失礼します。 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

縄文好きの私は埼玉県の縄文の宝庫であるふじみ野市を訪れました。最初の目的地は水子貝塚公園です。東武東上線のふじみ野駅から歩いて15分(1.2㎞)です。今日は好天に恵まれ、散歩にはとても暖かな一日でした。

 

現在のふじみ野市には海はありませんが、今から5,500年前の縄文前期には現在のふじみ野市西部の荒川低地には海が入り込んでいました。そして東部の武蔵野台地には人々が生活の起点を置いていました。このムラが水子貝塚です。ふじみ野市では15の貝塚が発見されています。水子貝塚以降の貝塚はありません。つまりこれ以降は縄文海進で海面が上昇し、海岸線が遠くに離れていったからです。しかしこれ以降も集落はつくられましたので、ふじみ野市内には縄文時代のムラが沢山発見されています。

 

水子貝塚公園には復元住居の他、資料館や展示館がありますが、コロナ禍により閉鎖されています。しかし資料館では一部観覧ができ、資料も入手できました。さらにスタッフの方々がとても親切に説明をしてくださいました。そして私が縄文遺跡に非常に興味があることがわかりますと、現在発掘中の正網遺跡がここから徒歩15分の場所にあることを教えて下さり、また別の方はその道順までコピーして丁寧に教えてくださいました。

 

さて出発です。詳しい地図をいただいたのでとても心強い、そして目印は性蓮寺と八幡神社です。全く迷わずに辿り着くことができました。周囲は新しい戸建ての住宅地が続きます。すると性蓮寺の隣の高台に青いビニールで覆われたマウンドが見え始めました。隣の性蓮寺はまさしく低地で、発掘遺跡は高台です。非常に興味深い土地です。

 

ここでは2つのグループに分かれて作業中でした。大きな穴が沢山見えました。一つ目の作業場では男女お二人が測量をされていました。すると若いとてもイケメンの男性が何と私に、「足元に気を付けて歩いてくださいね。」と声をかけてくださいました。さらに作業の手を休めて、この遺跡の歴史を教えてくださいました。縄文後期から晩期の3500年から4000年前の住居跡のことです。ここには貝塚はないこと、そして住居の構造、水子貝塚の住居よりも多くの柱を使って住居がつくられていること等、ご丁寧にお話しくださったのです。感激。

 

そしてもう一つのグループでは6.7人の方々が土を丹念に掘り起こす作業をされていました。するとまたグループのリーダーと思われる方が私に「こんにちは」、と声してくださいました。またここでの作業の内容や縄文時代の家の構造などを丹念に説明をしてくださるのです。縄文時代は精神文化が豊かで、1万年以上も平和に皆共存共栄していた時代があったのです。ここでも感激。

 

この作業中の場所は何の区切りがありませんでしたので、厚かましくも入り込んでしまいましたが、最初から最後まで訪問者は私一人でした。地元の方にとってはまた発掘かと思う方も多いのかもしれませんが、私にとりましてはとても貴重な体験となりました。

 

こんな面白いニュースも発見。「くらづくり本舗 ふじみ野店」という和菓子屋さんの床下には縄文時代の遺跡が存在するというもの。店内の一部ガラス張りで地下の縄文遺跡の場所を公開しているというもの。ふじみ野市は縄文時代の遺跡が数多く発見されていて、この場所は6年前、店を建てる際に縄文時代の遺跡が発見されたそうです。そこで、1年間の調査後、その遺跡の一部を店内に残してお店を建てたというものです。ユニークですね。このようにふじみ野市では貝塚や住居跡が、新たに住居を建設する際に見つかるのようです。