竹内巨麿の鞍馬100日・大悲山の1000日修行 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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明治8年元旦生まれの竹内巨麿は19歳の明治27年2月6日より京都の鞍馬にて100日、その後大悲山にて1000日(実際には1050日)の修行を行っています。鞍馬の修行中は一日に1合の蕎麦粉以外が何も口にしなかったそうです。居住地は鞍馬山の奥の院の岩陰だったようです。京都北部の標高の高い鞍馬山の寒さは私たちの想像を超すものだったことでしょう。

 

鞍馬山では昔から天狗が出る山として知られています。現在でも鞍馬駅近くには大きな赤い天狗が展示されています。ここ鞍馬山ではかつて源義経(幼名牛若丸)は、7歳頃に鞍馬寺に入山し、16歳の頃、鞍馬寺を出て奥州平泉に下ったと言われています。牛若丸は、昼間は仏道修行、夜は僧正ガ谷で天狗に兵法を授けられたという伝説があります。

 

鞍馬寺の本殿前には本殿から奥の院(魔王堂)までの道筋は木の根道が続きます。足元一体に木の根が張りつめています。根が地表面でアラベスク模様を描くのは、この辺り一帯の砂岩が、灼熱のマグマの貫入によって硬化したために根が地下に伸びることが出来なかったためと説明がきがあります。つまりここはかつては大きな大地の変動がありマグマが上昇、噴出したために木の根が地上に横に伸びたものが今でも残っているということです。気が遠くなりそうな太古の昔からずっと今でも化石となって生き続けている木なのです。牛若も「木の根道」で兵法修行をしたと伝えられています。

 

戦国時代には武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康などの武将がしきりに戦勝祈願を行い武道の山として、また神代以前からの古神道や陰陽道、修験道等の山岳宗教の場所であった故はこのような太古から多くの樹木に守れて大自然があったからこそだと思います。それはやはり実際に体感するしか方法はないかと思います。

 

奥の院(魔王殿)は太古、護法魔王尊が降臨した磐坐・磐境として崇拝さ れてきました。沢山の磐座が点在しています。おそらくこの場が竹内巨麿は100日修行の場であったかと思われます。この近くには太古赤道近くに生息していた樹木が残っています。つまり木の根の道と同じように太古において大地の大きな変動があったことがわかります。それでも地球はこのように存在しているのです。

 

竹内巨麿は様々な誘惑の魔を脱し、100日間の鞍馬での修行を終え、次の修行の場である奥地の大悲山へと向かいます。かつては道などはなかったことでしょう。まずは三本杉の中央に2泊し、その後は崖に懸って建っている本堂に2泊し、その後の住処となる断崖の洞穴を見つけたそうです。そこに1千個の意思を積んで、一日たてば一個を取り除く方式で日数を数えたようです。

 

この修行中に竹内巨麿は数多くの神歌(和歌)を授かります。この神歌を唱えることにやって、様々な効力があります。禍をのがれる。病気や火傷、暑気あたりを治す。罪を消す。いかなる物を食べても害にならない。水の害をうけない。家に悪魔や外道の類が入らない。故事祭典に唱える歌など、その他多数の神歌でした。

 

私はこの大悲山はまだ行ったことがありません。是非次回は大悲山に行ってみたいと思っています。