三和 導代 です。
東京・新橋の歌舞伎座の12月公演も26日で終了しました。私は23日に一幕のみを観劇してきました。コロナ禍ですので、隣の席は空席、館内での会話、休憩中のお弁当は禁止で、全ての回が入れ替え制となっていました。12月初旬に駅で見た看板の中の「神功皇后と武内宿禰」の字が目に入ったのがきっかけでした。「四変化 弥生の花浅草祭」の演目ですが、「神功皇后と武内宿禰」「三社祭」「通人・野暮大尽」「石橋」、4つの演目の吹き寄せ舞踏劇です。
劇の設定場所は三社祭で賑わう浅草、山車の屋台に飾られた神功皇后と赤ん坊(応神天皇)を抱えた老臣の武内宿禰から始まりました。武内宿禰を演ずるは片岡愛之助、神功皇后役は尾上松也と二人のイケメン俳優の色鮮やかな衣装と演技、三味線と長唄の見事な演奏から始まりました。コロナ禍ですので三味線と長唄の方々が鼻から下に長い黒い布をつけながらの演奏と唄でしたので、苦しくないものかとずっと気になっていました。舞台の武内宿禰はずっと白い布で覆われた赤ちゃんを抱っこしています。この赤ちゃんは間違いなく応神天皇という設定なのだと思いました。世間では応神天皇と神功皇后の間の子供が応神天皇であると噂もあり、武内宿禰が赤ちゃんを抱いている像は各地にあるからです。
今年の1月に他界された口伝にて竹内文書を伝授された竹内宿禰第73代・竹内睦泰氏はこの件に関して、応神天皇は武内宿禰と神功皇后の間の皇子であったと複数の公開録画で残されいます。
しかし文字で残された竹内文書には今年の1月に他界された口伝にて竹内文書を伝授された竹内宿禰第73代・竹内睦泰氏はこの件に関しては、応神天皇は武内宿禰と神功皇后の間の皇子であったとお話しされていらっしゃいました。仲哀天皇は三韓征伐というご神意に反対されたから。。。。。
それに反して文字にて残っている竹内文書には、神功皇后が30才の2月に仲哀天皇は急に崩御され、皇后は蛙田宮で春ごろお産し、誉田別(応仁天皇)がご誕生。皇后は戦争のため悲しみを押さえ、三韓征伐へと皇子のためにも、天皇に代わり出征を承知されました。戦争のためお産も秘め、幼い皇子を木菟宿禰に預け、10月に武内宿禰と共に新羅へ渡り、伝書鳩で皇子の消息などを文通された、約3年後の12月に還幸。翌年正月に皇子誕生のご発表という記録が残っています。
今となってはどちらの言い分が正しいかは判定できません。武内宿禰の血筋を探っていますと、仲哀天皇はご神意の三韓征伐に反対したために翌日に崩御とありますが、武内宿禰は三韓征伐の名目で大陸からの人々の帰化を推進したという説もおかしくないのです。
闇に包まれた世界です。
しかし世の中の風潮、歌舞伎界にてこのような演出をされたというのは何か意味があったのかもしれません。
私見では応神天皇は武内宿禰と神功皇后の皇子ではないと思っています。