イエメンやブルキナファソでの飢餓 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

竹内文書の研究家・高坂和導の遺志を継ぎ、三和導代が古代スメラミコトの足跡をたどり、世界を旅するブログ

三和 導代 です。

 

今日のニュースの中こんな記事を見つけ心を痛めています。

 

国連食糧農業機関(FAO)と世界食糧計画(WFP)は6日、内戦で荒廃するアフリカのブルキナファソ、ナイジェリア北東部、南スーダンと中東イエメンで飢餓のリスクが高まっているとの報告書を発表した。 FAOとWFPは「内戦や経済悪化、気象異常、新型コロナウイルスの感染拡大といった災難が重なり、人々をますます食糧不足の局面に追いやっている」と指摘。

 

今年の新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて、私は日本に足止め状態でいます。4月予定のギニアへの旅を断念して、11月に延期しこれもキャンセル、そして3度目の正直で12月に延長したものの今度は大統領選による政情不安定にて断念。つまり今年のアフリカ大陸への旅はすべて断念。アフリカ大陸に行かい歴は天安門事件、湾岸戦争以来かもしれません。しかしその期間は今回のコロナ禍ほど長くはなかったかと思います。

 

そんな中、1990年代に大好きで何度も訪問したイエメン、昨年と一昨年も治安悪化の前にぎりぎりで訪問できたブルキナファソの名前を見て、心穏やかにはいられません。

 

中東のイエメンはかつては幸福なアラビアと言われたほどの国でした。首都サナ―や旧市街は粘土とレンガで作られた築何百年も続く最古の摩天楼都市で、その当時は皆そんな歴史ある家に住んでいました。アラビア半島の中で唯一、男性はジャンビア(刀)を腰に下げ、女性は家で家庭を守るという昔ながらの伝統的な生活が続いていた国です。今ではおそらく戦禍のために、見る影もない状態のようです。砂漠の摩天楼都市サユーンも私たちをアラビアンナイトの世界に導いてくれる世界でした。

 

西アフリカのブルキナファソを1番最初に訪ねたのは今から25年前、お隣のマリ共和国から入った記憶があります。首都のワガドィグのフランス料理が非常においしかったことをよく覚えています。まだこの当時は治安も安定していました。そう、2001年の元旦を迎えたのは二ジュールの国境に近いブルキナファソニジェールの砂漠地帯だったと思います。その途中、四輪駆動で走りながら、夜空にUFOを見て歓声を上げた記憶があります。そして昨年2月、治安が徐々に悪化していく中、最後の訪問となりました。様々な民族がそれぞれの地域に独自の伝統文化を守りながら生活している姿がありました。

 

世界中の多数の少数民族が戦禍、そしてコロナ禍で喘いています。私は社会的弱者、少数民族が消えていくことは、つまり地球上での種の豊かさを損なう地球の財産の損失だと考えています。今、私に何ができるか?現在の私が存在するのも現在の思考を確立できたのも中東やアフリカに人々と出会い学ぶことができた私でした。これからも僅かながらでも支援と関わりをもっていきたいと思います。