6月10日は太神社の奥宮が・・・・・ | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

今日6月10日はミニ竹内文書勉強会は巣鴨で開催されました。今回のテーマは竹内文書と富士古文書(神皇紀)との歴史検証でした。前回は竹内文書とウエツフミがテーマでした。この3つの古文書はいわゆる偽書と言われているもです。なぜでしょうか。それは神武天皇以前の歴史が長ーく記録されているからです。聖書でいう創世記からです。

 

さて、この3つの文献の中で、天皇が人民に指導された食生活等の模範的な記述がありますが、この内容が3つの文献で全く内容が同じという点がとても興味深いかと思います。そして歴史書が誰によって編纂されたかによって表現がとても異なるのですが、一つの事柄を伝える表現が古文書によって異なりますのでとても愉快です。そんな観点で歴史を見ますと、とても歴史が楽しくなるかもしれません。

 

そう神皇紀の編纂者であった徐福は秦の始皇帝の時代の中国からやってきた人です。そして竹内宿禰との会見などが出てくるのです。竹内文書ファンが読んだら、怒ってしまう場面もあるかと思いますが、私はとても学びとなります。一つの出来事を一点からしか見ませんと、盲目的な見方となってしまうからです。

 

さて高坂和導が我が家で2002年以来お祀りしておりました国常立大神はこの徐福と子孫が遺したと言われる神皇紀に出てきます太神社に祀れれるべき神様でした。私は何もわからないままそのままお祀りしておりました。伊勢神宮の天照大御神よりずっと古い厳格な神様であるとは聞いていましたが。この2年間でその真相がどんどん明らかになってきたのです。この神社の由来がしっかり神皇紀には記されています。

 

37年丙寅年(306)6月10日、竹内宿禰を勅使として三国第一の山と書かれた勅額(天皇直筆の額)及び神功皇后の弓矢を大山守皇子(応神天皇の皇子・太神宮の司祭長)に賜れた。そして天照皇太神の麻呂山の古宮を改造して、これに御祖代山にある皇太神の奥宮を合祀された。また同所に或る徐福の墓の側に宮を建てて徐福神社として祀らてた。・・・・・・

 

そう今日のテーマがなぜ富士古文書(神皇紀)であったか、やっと納得ができました。今日6月10日は太神社の記念日だったのです。

ご興味がございましたらどうぞ一読を。