不合朝第66代の豊柏木幸手男彦天皇日嗣天皇 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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以前にもご紹介しましたように故高坂和導とシャーマンの神人さんとの対話が2020年2月6日に行われました。(2月12日のブログにて公開)その中で、高坂は過去世におきまして不合朝第66代の豊柏木幸手男彦天皇日嗣天皇(トヨカシワキサイテオノヒコ)の時代があったことを語っております。

 

豊柏木幸手男彦天皇日嗣天皇は古史古伝と呼ばれる二つの竹内文書と上記(ウエツフミ)の中で、全く同じ名前で不合朝(ウガヤフキアエズ)第66代の天皇として登場します。また皇后名も皇女(後に67代の天皇となります。)名も全く同じです。

 

ここでは竹内文書に残る資料をご紹介させていただきます。

 

  豊柏木幸手男彦天皇日嗣天皇の皇后は、第63代天皇の皇子豊葦原大彦ミコトの皇女である天津豊日足皇后(アマツトヨヒタル)です。足形姫のほか、8名を妃とされ、富山の皇祖皇太神宮で、天皇自ら祭主で、即位大祭礼をされました。

  皇子21人と皇女23人を、万国の文字言語の教官に任命しました。

  即位38年5月8日、万国巡幸。

  即位129年12月9日、秋津根(摂津)大和のムネヒ山宮に臨幸、仙洞とされました。

  即位137年4月5日、皇女の春建日媛尊(ハルタケヒメ)に譲位、2年後の11月2日、189才で神幽、ムネヒ山に葬られました。遺詔によって、天日種主命、天月種王命は、インドに行き、国を開くことになりました。

 

神武天皇から数えて8代前のことだそうです。この時代は今よりずっと長寿であったことがわかります。