時が止まったエリトリア | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

エリトリアの首都のアスマラにいます。1991年にエチオピアから独立したエリトリア、その後数年にて国交断絶、昨年にエチオピアと国交が回復した小さな紅海に面した国です。

 

その間港と持たないエチオピアはエリトリアではなくジブチの港を利用することにより、物資の輸出入を行い、発展したきました。その間、エリトリアはほぼ鎖国状態、同胞出会った人々も離散し、家族でも会えない朝鮮半島と同じ状態でした。

 

昨年の国交回復という意味では、エリトリアの今後の経済上の発展にみならず、個人レベルでも家族の再会が実現しています。夫婦、兄弟で、親子でも2つの国に分かれて合うことが許されなかった26年でした。

 

紅海のマッサワの古港で年老いた二人の姉妹が言葉少なげに、足を紅海の水に浸しながら涼んでいる姿がありました。姉妹でありながら、結婚した相手は同胞でありながらエチオピアとエリトリアの国籍という違った国籍であったために会うことが許されなかった姉妹です。

 

昨日、妹がアディスアベバから飛行機でエリトリアのアスマラに着き、そしてこの紅海のマッサワでの再会が実現するという何とも感動的なシーンの一幕でした。

 

紅海のマッサワは軍事上、交易上ともに歴史的には重要おな地点でした。ローマ帝国時代もソロモンとシバ女王の時代、オスマントルコ時代、現在でもアメリカやアラビア半島の国からは大事な拠点です。

 

1880年代にヨーロッパのイタリア軍がアフリカ戦略として目をつけ最初に入植した場所もこのマサワでした。エチオピアという国の中にイタリア、そして英国が入植、そしてエリトリアとなり、貧困を極めてのエチピアとの国交回復は画期的な出来事でした。

 

竹内文書でも皇統14代の古代スメラミコトの時代にもこのマサワに天空浮船で降り立ったという記録が残っています。大変重要な場所です。今日は日本を台風の波が襲っている中、季節外れの大雨に襲われた昨日の今回のマッサワでの体験は偶然とは思えない生涯忘れることができないものとなりました。