オホーツク海の斜里町のストーンサークル | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

今日は網走からオホーツク海沿岸の町斜里町に行って来ました。網走からは1日の数本しかない電車とバスが出ています。一日4便ですので、スケジュールを組むのは大変です。まして、その先のストーンサークルとなりますと、奥地となりますので。

 

でも私は自分の計画と直観で動く旅が大好きです。もし計画通りに行かない時は、私の行動パターンを修正してくれたと考えれば良いのです。そう、いつも結果オーライです。

 

今日もトラブルが2件発生、予定していたバスは運行しておらず、4時間待ちということが分かり、現地の青森出身のタクシーの運転手さんとなぜか知り合い、超破格値でストーンサークルを案内していただけました。この方は実際にかつてアルバイトで発掘にも携わった人で、妙に詳しいんですね。そして知床博物館まで連れて行ってくれました。

 

そして斜里町から網走に戻るバスの中で、PCを広げて仕事を必死にしていたのはよいのですが、網走について急いで下車、次の目的地に向かおうとバス停で待っていたところ、不覚にもバスにスマフォを忘れたことに気がつき、・・・・・・・・来れなかったら、仕事全くできない・・・・・・

網走駅に駆け込み、公衆電話のある場所を聞き、直ぐにバス会社に電話。すごいです。この電話の間はたぶん5分くらいだったと思いますが、バス会社の人がバスのドライバーに直ぐに連絡してくださり、直ぐに手配、このバスはラッキーなことに女満別空港に到着後、押し返し便でまた戻るとの事で、何と連絡後の1時間後には私の手元にもどってきたのです。感謝感謝であります。

 

さて本題の斜里町の朱円のストーンサークルは縄文後期のもので、東北地方のストーンサークルと酷似てしています。冬至や夏至にの太陽の上がる場所と沈む方向を計算して造られています。つまり天文学に熟知していたことが分かっています。

 

これは一例でありますが、オホーツク海沿岸には縄文、続縄文、オホーツク文化、擦文、そしてアイヌと本州とは異なった文化を知ることができます。本州と同様に縄文時代はもちろんあったのです。その後、本州は弥生時代を迎えます。つまり本州は大陸でも中国や朝鮮半島からの文化が入ってきますが、北海道では大陸でもロシアのシベリアからやってくる文化が入ってくるのです。ここが決定的な違いです。

 

ですから北海道のアイヌの方々は本来の縄文系とシベリア北方系の大陸からの文化が混ざり合った人々ではないかと私は思ってます。オホーツクの人々の住居には熊の骨が飾られています。オホーツク人は狩猟民族でしたが、狩猟した動物を非常に崇拝しました。特に熊を重視し、家の中に熊の骨を置いていたのです。アイヌ人も熊をチセ(母屋)の外に大切に家族同様に育てました。

 

斜里は漢字ですが、シャリはアイヌ語です。アシ原の意味です。北海道の地名はアイヌ語だらけで、とても読むのが難しいです。

 

今日は中秋の名月でした。網走の夜はもう寒いです。でも雲一つない快晴。セーターとジャケットを羽織って、網走郷土博物館の友の会主催の月の観測会に参加させていただきました。ウサギのお月さま、木星、土星を望遠鏡で観察しました。