唐時代の高宗と則天武后の御陵 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

竹内文書の研究家・高坂和導の遺志を継ぎ、三和導代が古代スメラミコトの足跡をたどり、世界を旅するブログ

三和 導代 です。

西安郊外には唐時代の御陵が18あります。その中でも乾陵は高宗と中国で唯一の女性の皇帝である則天武后の御陵です。

日本では御陵には天皇のみで皇后は別に埋葬されますが、中国では天皇と皇后は一緒です。

則天武后は悪名高き女帝で、高宗の先代の皇帝であった寵愛を受けながらも、皇帝の息子で後の皇帝となる高宗に取り入り、皇后を退け、自分が皇后の座に就く。さらに自らが皇帝の座に就くために自分の二人の息子も殺害したとい悪名高き女帝です。

三男が幼少であることを理由に自らが皇帝として君臨、後には三男の娘つまり孫娘である永泰公主も殺害したと言われています。

しかしながらこの歴史にも大きな裏話があるものと想像がでします。当時の唐の都には海外からの様々な民族が混じる人々が集まる国際的な都でした。もちろん日本人もおりました。

そして何と驚きますことにこの党の時代の皇帝のシンボルとして使用されていましたのが16条菊型紋だったのです。