「死してなお生えてくる髭」
髪の毛が伸びる人形と言えば萬念寺のお菊人形が有名だ。この超常現象についてはさまざまな説が飛び交っており、心霊現象ではないという意見もある。だが、人形には持ち主の魂が宿りやすいので、一概にそうとも言い切れないのではないか。では、これが人間の場合はどうか? つまり、この現象が死者に起きたのなら心霊現象として捉えられるのか否か?
岡本さん(仮名)は父親を病気で亡くした。父親は岡本さんが一人息子ということもあり、大人になっても甘やかすほど溺愛していた。そのように育てられた岡本さん自身も父親が大好きで、その死を看取ったときは人目もはばからず号泣したという。
父親の死は、病に伏して昏睡状態になってから覚悟していたが、それでもいざ臨終を告げられると何時間も泣き続け、自分も心から愛していたんだと痛感したものである。その大切な父親をきれいなまま葬ってあげようと、すぐに乱れた髪を整えてあげ、無精髭も剃ってあげた。
本葬の前日、岡本さんは遺体を安置してある部屋で、父親の亡骸と一夜を共にした。そして、恐ろしい夢を見る。父親がもがき苦しんで岡本さんに救いを求めていたのだ。
「まだ死にたくない、お前と一緒にいたい」
大人になっても子は子。父親にとって岡本さんはいつまで経っても愛する息子なのである。このまま永遠の別れにしたくない、だから助けて欲しい!…父親はそう願っていると岡本さんは感じた。
やがて夢の中で、父親の体が炎に包まれていく。
「熱い! 熱い! 助けて!」
激しい熱さにのたうち回る父親。
「俺はまだ生きている! 助けてくれー!」
「父さん!」
岡本さんは目を覚ました。全身に冷や汗をかいていた。横にいる父親を見ると安らかな顔をしている。
「夢か…。なんて嫌な夢だ…」
そして翌朝。死後3日目の本葬のときだった。最後のお別れをしようと棺の中の父親の顔を見ると…
「!」
岡本さんは驚愕した。
「父さんは生きている!」
葬儀の参列者たちは驚いた。
「どういうことだ!」
皆、いっせいに棺の前に集まった。だが、父親の顔は穏やかな表情で目を閉じたまま。息をしていなければ心臓も動いていない。
「死んでないかいない。火葬なんかしてたまるか」
棺の中の父親に抱きつき、泣いて喜ぶ岡本さん。他の者が引き離そうとするが激しく抵抗する。
「なぜみんな分からないんだ! 父さんは生きているのに!」
愛する父親の死という現実を認めることができず、直前になって錯乱したのだと誰もが思った。そこで、親戚の一人が理由を尋ねると、その事実に衝撃を受けることに!
「父さんに髭が生えている。爪も伸びている。髪も少し伸びている!」
他の参列者も中を見てみるが、正直生前との違いが分からなかった。そもそも生活を共にしていた身内ではないのだから、ほんの少し爪や髪が伸びていても分かるはずがない。
だが、髭が確実に生えてきたのを証言できる人が他にもいた。岡本さんが髭を剃ってあげているところを見ていた近親者の一人だった。その人も薄っすらと生えた髭を見て腰を抜かした。
「本当に生きてる…。私は確かに息子さんが髭を剃っているところを見た。でも、生えてきたということは…ひぃぃぃ~!」
実際に髭が生えたということは、爪も髪も本当に少し伸びたということになる。だとしたら、それは生きている証拠?
「このまま火葬したら、生きたまま父さんを焼き殺すことになる。それでもいいのか!」
式場がいっせいにざわめき立った。
「うおおおおおー!」
岡本さんは半狂乱になって暴れ出し、式の中止を叫び出した。
「お父さんは俺にメッセージをよこしたんだ。まだ生きてるから焼かないでくれと! 葬式は中止だ!」
式場はパニックになった!
岡本さんが昨夜夢で見たのはこのことだったのかもしれない。父親はまだ生きていて、助けを求めてきたのだ。あるいは生き返る可能性があることを知らせに来たのかもしれなかった。肉親ならそんな霊的な感覚が起きても不思議ではない。
夢のお告げだけでは現実味がないから、髭や爪や髪が伸びたことを直接見せつけてきたのか? それならば合点もいくが、実際にそんなことがあり得るのか!
岡本さんが錯乱状態となり式は一時騒然としたものの、結局生命の維持は確認できなかった。そして、取り乱した岡本さんを強制退去させ、喪主不在のまま火葬まで執り行われた。
果たしてこれは霊現象だったのか? 答えはノーである。
人間の死は、呼吸、心臓、脳機能の停止をもって初めて認定される。しかし、皮膚や筋肉の細胞はまだ生きており、半日くらいは活動しているのである。それを考えれば、伸びてもおかしくないはずだが、半日程度では目立つほど伸びはしない。しかも、血液の循環が止まれば新たな細胞分裂は起きないので、伸び続けるだけの新陳代謝もない。
では、どういうことなのか? それは皮膚の乾燥によるものだった。毛などは、水分がなくなり皮膚がへこんだぶんだけ伸びたように見えてしまう。髭を剃ってあげたときは深剃りをしなかったため目立つほど伸びたのである。爪も乾燥により肉の部分がへこんだぶん伸びたように見えたというわけだ。
この現象は法医学で「死後の乾燥」と呼ばれている。
大切な人の死は受け入れがたく、棺桶の中でしばらく生きていたのではないかと思ってしまうが、実は医学的根拠で証明できることもあるのだ。