浅草OL時代:
【愛がこもったぬいぐるみ】
20代のOL時代のことです。仕事を終え、家に帰る時は、いつも浅草駅から新仲見世通りを抜けて行きます。観光名所である浅草の中でも特に平日の昼間から賑わっているのが、この新仲見世通り。
しかし、夜も遅くなると日中の賑わいが嘘のように静まり返っています。正直、若い女性が一人で歩くにはちょっと怖いかも。
その日、私は残業で仕事が遅くなり、翌日に迫るくらいの帰宅時間になりました。そして、いつものように新仲見世通りを歩いている時、前方に誰かがいることに気づきました。みすぼらしい身なりをした40代くらいの女性と小学生低学年くらいの女の子です。おそらく親子なのでしょう。
二人は、シャッターが下りている店舗の前で、搬送用の大きな木箱の上に布切れを敷き、そこで物を売っているようでした。簡易なつくりの露店は、無許可での違法販売であることは明らかです。
売られていたのは、いかにも手作りというのが分かる数々のお人形。生活に困っている親子が、深夜に手作り人形を売って生計を立てているのでしょう。
私はその親子を見て酷く同情してしまいました。とくに女の子が可哀そうに思えたのです。子どもはもう寝ている時間なのに、母親に連れられて商売を手伝っている姿に涙が出そうになりました。
私が立ち止まって見ていると女の子が声を掛けてきました。
「お姉ちゃん。お母さんが一生懸命作ったお人形なの。買ってくれない?」
売り子をする健気な姿が思わず同情を誘います。
もう人形を好む年齢ではありませんでしたが、手作りの割にはクオリティの高い作品ばかりだったので、ひとつぐらいならいいかなと思いました。きっと母親は手先の器用な人なのでしょう。
「お姉ちゃんはどういうのが好きなの?」
「う~ん、可愛い動物が好きかな」
作品の中には犬や猫、擬人化した仔豚などがありましたが私の好みではありません。
「私、うさぎが好きなんだけど、それはないのかな?」
親子は一瞬顔を見合わせたあと、母親がゆっくり口を開きました。
「ごめんなさい。売り物としてはないんです」
売り物として……という意味が分かりませんでしたが、とくに欲しい物がなかったので買うことを諦めて帰ることにしました。
「お姉ちゃん、待って!」
女の子に引き留められ、目の前にうさぎのぬいぐるみが差し出されました。
でも、慌てて母親が腕をつかんで引っ込めようとします。
「だめよ。こんな古いもの。それにあなたの宝物でしょ」
女の子の私物だったようです。
「お客さん、ごめんなさいね。これは娘が小さい時に作ってあげたもので、もう古いから売り物にはならないんです」
私としても女の子の大事なお気に入りを取り上げるようなことはしたくありません。しかし、女の子は引き下がりませんでした。
「お願い、お姉ちゃん買って。今日は1個も売れてないの」
その時です。女の子のお腹からクゥ~という微かな音が……。もう、そんな音を聞かされるなんて反則です。
「わかった。買ってあげる」
「ありがとう!」
実はお金だけ渡してぬいぐるみは受け取らないという選択肢も考えました。でも、それだと親子が物乞いみたいになってしまいます。そんな自尊心を傷つけるようなことはできません。
そうして私は、同情だけで古びたうさぎのぬいぐるみを買って帰ったのです。
帰宅後、ぬいぐるみを机の上に置いて、シャワーを浴びたあとすぐ寝てしまいました。
その翌朝のことです。起きるとぬいぐるみが床に落ちていたのです。
「あれ? なんでだろう。地震があったわけでもないのに」
ぬいぐるみを机に戻し、私は出社しました。
不思議なことは次の夜も引き続き起きました。朝になると必ずうさぎのぬいぐるみだけが落ちているのです。ほかに飾ってある物は落ちていません。その次の朝も同じでした。落ちていない日は、前の晩と違う位置に少しずれているのです。
夜中に動いてる? え? そんな変なことってある? ひょっとして、古い家なのでネズミが出ていたずらをしてるのかな?
さすがに三日もそんなことが続くと私としても不安が募ります。そこで、ぬいぐるみに透明のガラスケースを被せてみました。
翌朝、落ちていませんでした。ですが、ケースの真ん中にあったぬいぐるみの位置がずれています。ガラス面まで移動しているのです。
やっぱり動いてる!
本当なら怖い怪奇現象です。でも、不思議と怖さを感じませんでした。
なぜなら、人形やぬいぐるみというのは、大切にされればされるほど持ち主の気持ちがこもるもの。それは決して怖がる類いのものではないからです。
次の夜、ガラスケースから出したぬいぐるみを寝ずに見張ることにしました。正直ちょっと怖かったけど、自分の推測が正しいのかどうかを確かめたかったのです。
眠気覚ましのドリンクを飲み、眠ったふりをしながらじっとぬいぐるみを監視し続けました。普段は可愛いうさぎのシルエットも、この時ばかりは不気味に感じたものです。
そして、午前2時を過ぎた頃でした。
ズズッ……
小さな音が聞こえ、暗闇に慣れていた私の目は、微かに動いたぬいぐるみの姿を捉えていました。足に可動域がないうさぎのぬいぐるみは、まるで磁石かなにかに引き寄せられるように、ズズ~ズズ~と足の裏を引きずるように少しずつ動いています。動けない体を無理に動かしているようにも思えます。
そんな光景をリアルに見ても怖いとは思えませんでした。うさぎの赤い目からは涙が……涙が出ているようにも見えました。
(帰りたい……帰りたい……。あの子のところへ帰りたい)
うさぎの目はそう訴えているように思えました。
ドサッ
ぬいぐるみが机から床に落下しました。最初に見たのはこれだったのです。
横たわったまま動かなくなったぬいぐるみを見て、涙がこぼれました。女の子の元へ必死になって帰ろうとする健気な姿に居たたまれなくなってしまいました。
おそらく女の子も大切なぬいぐるみを手放したことで酷く悲しんでいることでしょう。毎晩、枕を濡らしているに違いありません。私はぬいぐるみを拾い上げ抱きしめました。
「ごめんね。ごめんね。きっと帰してあげるからね」
翌日の夜、ぬいぐるみを持って仲見世通りに向かいました。しかし、あの親子の露店はありません。翌日も、その翌日も居ませんでした。しばらく通いましたが、あの親子の姿を見ることは叶いませんでした。
そこで、店のシャッターの前で、勝手に露店営業をされていた店主に話を聞いたところ、警察を呼んで追い払ったとのこと……。それ以来、親子は現れなくなったそうです。
「もう会えなくなっちゃったね」
うさぎのぬいぐるみをグッと抱きしめて語りかけました。思わず目からこぼれるものがあり、無機質なガラス細工の赤い目の上に涙の水滴が落ちた時、うさぎも一緒に泣いているように見えました。
「ごめんね。もっと早く気づいてあげれば良かった」
何も言わず、ただ私を見つめ返すだけの濡れた赤い目。それは泣きはらした子どものような眼(まなこ)でした。
いつしかぬいぐるみは動かなくなっていました。女の子がかなり遠くに行ってしまったのでしょうか? それとも手の届かない所に行ってしまったのか……。
ぬいぐるみはしばらくうちに飾られていましたが、私がお嫁に行く時に近くのお寺で人形供養をしてもらい、もう手元にはありません。形として私の所に残っているよりは、供養された魂が女の子の元へ戻って行く方が幸せだと思ったからです。
魂が宿った人形やぬいぐるみは怖い、夜中に動くとお化けみたいで怖い……そう思う人は多いでしょう。でも、少しも怖いことではありません。愛された人形やぬいぐるみは、持ち主と愛情を分かち合える不思議な力を秘めているからです。動くのはなにかしらの意思表示やメッセージかもしれません。それは素晴らしいことではないかと思うのです。
そして、自分の感性を信じてください。私のように「怖い」という感情を抱かなければ、それは霊の仕業ではなく、愛あるメッセージとして受け取っていいのではないでしょうか。
たとえちょっと動いたとしても、どうか怖がらずにいつまでも大切にしてあげてください。