漫画『ブラックジャックによろしく』は、信念を持った若い研修医が、実際の医療現場の実情を目の当たりにして苦悩するという話だが、これは決してノンフィクションではない。医療の世界だけではなく、どの分野にもはびこっている昔からある現実なのだ。
生活のために妥協してやっていくか、己の信念と理想を貫いて苦労してでもやっていくか、二つに一つの選択の中で、ほとんどの人が前者を取る。だが、中には後者の道を歩む者も稀にいる。特に正義感の強い人と職人気質の人は後者が多いようだ。
今回は「歯科の話」シリーズの6回目として、現在自由診療を行っている歯科医師の若い頃の苦い体験から、保険診療を行う歯科業界の一部実態をお伝えする。かつて「~その2~」でも同様なことに触れたが、今回はさらに実際のブラックな内容を明らかにする。
自由診療をしている歯科医A氏に「どうして保険診療をやらないのか」を聞いてみたところ、研修医時代の経験が大きかったそうだ。
国立大学出身のA氏は、バイト先として埼玉県某市の歯科医院に勤務することになった。そこの院長は地元の有名高校出身者で、そのプロフィールを前面に出して開業していた。その高校を出ているというだけで、地元民からは「あの院長は優秀だ」という目で見られ評判が良くなるからだ。
その歯科医院は、3人の歯科医で一人30人を診察するというノルマが課せられていた。これはかなり無理のあることで、患者一人に対して十分な治療は行えないとA氏は思ったそうだ。では、どうすればこなせるのか? 手抜きだ。
何度も何度も通院することに疑問を持っている人は多いと思うが、一回の治療に時間を掛ければ早々に終わるものなのだ。ノルマ達成のために、一人に掛けられる間は15~20分。それでは中途半端なまま一回の治療が終わってしまう。だから「続きはまた今度」という形で先送りするしかないのだ。しかもその治療工程は事前に決められていた。どういうことか?
未来日記と呼ばれるカルテがある。カルテは治療が終わった後に、どういうことをしたかを書き込むものだが、20分の範囲内で終わる治療内容が既に書かれているのである。それ以外の治療は行わない。しかもカルテは後で改ざんできない。だから未来日記というのだ。
そのため、混雑している医院ほど予定外の急患を嫌がる。仮に歯茎が膿んでいる患者が来たとしても十分な治療はせずに、腫れてきたら治療すればいいという考えでいる。
ノルマ達成のための手拭き治療とは別に、患者を絶やさないための手抜きもある。それは虫歯治療に来た患者の虫歯菌を残すというもの。これはかなりあくどい。
わざと残さないまでも菌を完全になくすまで徹底してやらない所も多い。治療痕に少しでもプラークが残っていれば、そこから虫歯は再発する。そのプラークは特殊な光を当てれば見つかるので、一つ一つ除去していけば再発はしない。しかし、それをしていると時間がかかってしまい、20分をはるかに超えてしまう。だから、やらないのだ。
被せ物もグラグラなものが多い。ピッタリな物を作ると微調整に時間がかかるからだ。それよりも緩いものをすんなり被せた方が制限時間内に収まる。
また、余計な治療をすることにより診療報酬点数が上がるのを警戒していた。一人5000円以上が何人もかかるようだと、監査が入るからだ。だから、超えないように治療をする。
真面目な新人だったA氏はそのような治療方針が馴染まず、ノルマを達成することができずにいた。未来日記にあった以外の治療をやろうと思っても、歯科衛生士も淡々とシナリオ通りの作業をする。例えば、その日の治療箇所を終えた後で新たな悪い箇所を発見したとする。そこも治療してあげたいのだが、歯科衛生士がすでにセメントをねるなどして既にカルテ通りの工程をこなすのでどうにもならないでいたのだ。A氏は自己嫌悪に陥いり、だんだん無口になり、医院で孤立していった。
A氏が嫌気を差してきたのは、もうひとつ別の理由がある。当時、都内に自由診療の歯科医院にも勤務していたのだが、そことは明らかに治療方法が違うからだ。とにかく時間をかけてじっくりと治療をするのである。その医院には全国から患者が来るほど信頼されていた。医院自体も患者に責任をもってあたっていた。何かあったら責任問題になるので真剣なのだ。また、そういう治療を続けているので、歯科医自身のスキルもどんどんアップしていく。A氏はこれこそが真の歯科医療の姿だと思った。だからこそ埼玉の医院のやり方に益々不満を募らせていった。
そんな悩むA氏を見て、埼玉の院長はこう言った。
「君の言いたいことは分かる。だが、経営と学問は違う。君の真面目さは学問の延長だ。大学を卒業して働くようになったら経営のことも考えなければいけない。うちには多くのスタッフがいるし、彼らの生活も助けなければならない。理想だけでは、歯科医はやっていけないんだよ。
君みたいな国立大出身者は皆そうだ。大学に金がかかってないから、お金の厳しさを知らない。うちで雇ってすぐ辞めたものは皆国立だ」
また、都内の歯科医院に対しても批判を展開した。
「あそこは金持ちばかり相手をしていて庶民的じゃない。その点うちは地元の患者から支持されている」
支持しているのではなく、出身高校の看板に引き寄せられているだけであり、自由診療を行っている歯科医院が他にないからだ。繁盛しているのは、その様に見せている手抜き治療による再診稼働率の結果に過ぎない。また、都内の歯科医院は金持ちだけを相手にしているのではなく、丁寧な治療に金がかかるのは仕方がないことなのだ。
しかし、A氏はある日、経営に対する現実の厳しさを目の当たりにする。埼玉の医院を辞めた後、出身大学の病院で勤務を始めたのだが、保険診療による一日の収入がどれだけになるのかを計算してみたのである。その日は朝から夜遅くまで食事も満足に取らず、一人の患者に対して誠心誠意丁寧に対応していった。結果、10人を治療したのだが、1日の収入は3万円だった。A氏は愕然とした。あれだけクタクタになるほど必死に頑張ってこれだけ…。ここで初めて「経営と学問は違う」という言葉を実感することになる。
満足のいく治療と安定した経営をするにはどうすればいいのか? こうして導き出されたのが、自由診療で歯科医院を開業することだった。
A氏のように、悩む『ブラックジャックによろしく』版は多い。そこから現実に妥協してサラリーマン化するのか、己の信念を貫き通して別の方法を探るのか、医療従事者としての人生の選択を迫られる。
※注意:すべての保険診療がここで述べた内容とは限らない。真面目にやっている所だってある。自由診療も金儲けでやっている所があるかもしれない。どちらにしても患者には見極めが難しい…。