言わずもがな『世界の大谷』と、一言では済まされないぐらい異次元の野球人、大谷さん。



子どもだけじゃなく大人も世間も世界も注目を集め続ける大谷さんだけど、名前を拝借するだけでも影響力が及ぼすのだからただただ驚かされる。




「大谷くんも頑張ってるからズーも片づけ頑張ろ」



「これしっかり食べたら大谷くんみたいに大きくなれるよ」



何気なく私が毎日こう諭していると、今ではズーの方から


「頑張ったら大谷くんみたいになれるかな?」



「これ食べたら大谷くんみたいに体大きくなれる?」



と訊いてくるまでに。




やる気スイッチのきっかけはいつも『大谷さん』から始まる。





大谷さんは野球人だけど、ズーが野球を好きになるかどうかは今のところ未知数なので、ここで大事なのは、大谷さんと野球をやらせることは(別問題と)切り離して考えることにしている。



あくまでもズーは、大谷くんのフォルム(体の大きさ、存在)に圧倒されているだけで、野球そのものに影響を受けているわけではなさそうだから。



ってなると、今この時点で野球を無理矢理やらせようとするとそれはただの親のエゴになる。




子どもが意欲的ならいいと思うんだけど、親が野球好きという理由だけで子どもにもさせたいっていう考え方はちょっと違う……というか、大分違うような気がする。

 


親には親の人生があるし、子どもには子どもの人生があるし、そこの選択肢は子どもにあるんじゃないかな。



親の役割りとは、子どもが夢を持つきっかけを見つけてあげることなんだと、これまでもそしてこれからも私自身に強く言い聞かせている。



おそらくそれは真実で、非常に真実味を帯びていて、過去の自分の経験則がそれを証明しているからに思えて思えて仕方がない。


野球をやりたくない子どもに野球をやらせる行為とは、親の理想(ユートピア)を子どもに押しつけているだけの自己満足に過ぎない、という結論である。






【例】


野球観戦をしにはじめて子どもを甲子園に連れて行く。


でも子どもは野球には無関心だった。



じゃあ次はサッカー観戦に行ってみる。



それも無関心。



じゃあ今度は親子料理教室に連れて行く。



そこで子どもは料理に興味を持った。



それがきっかけで子どもは一流のシェフを志します。





これが私にとっての正解。




特定の「なにか」だけにこだわるのではなく、無数にある選択肢を子どもに与え、ひたすら可能性を模索してあげたい。



子どもが興味を持たなかったら次はこれ、次はこれ、とジャンルにこだわらずに親はお絵かきでもブロックでも英会話でもプログラミングでも将棋でもスイミングでもゴルフでも釣りでも忍者でも、兎に角何でもやらせてみる。



才能の見つけ方って結局数打って当てる泥くさい手法しかないんじゃないかな。



私はズーに色々なことをこれからもやらせてみる予定だけど、日頃から大谷さんの名を拝借している以上やはり野球をやりたいって夢を持たせるような伏線は所々に散りばめている。



ただ、私自身が正直そこまで野球に関心がないので、もし野球をやりたい!ってズーが本気で言ったときは親子で練習したり勉強したり、野球道にのめり込むことになると思う。


子どもを野球好きにしておいて、自分だけ関心がないなんてあまりにも無責任過ぎるからね。




練習しなさい!ではなく、一緒に練習しよう!って言える親になれたらいいナ。