私は、仕事以外の時間で活動できる余力を常に残すように心がけている。
もちろん満身創痍でそうならない日もあるのだが、基本的には温存するようにしている。
つまり、家庭を顧みずに仕事一辺倒で働いたり、死にものぐるいで働いて成果をあげて役職に就き平均年収以上に稼ぐ、といった考えや構想は一切持ち合わせていない。
なぜなら仕事の頑張り(年収アップ)の対価には「責任」がかならず伴うからだ。
私は、私の負うべき責任のすべてを仕事に捧げるという考えがとてもじゃないができない。
そこにやりがいや幸せをまったく見出せないからだ。
幸せを感じられないと、おそらく人はモチベーションを失う。失った状態で割り切って仕事はできたとしても質は上がらない。
では、質と一定の成果を上げるにはどうすればいいか。
私の場合は「余力を残すこと」、もうこれに尽きる。
その余力が、仕事帰りでも子どもとしっかり向き合う時間がつくれるし、仕事おわりの買い物や洗濯などの家事だってこなせる。
私は「ごめん、今日はお父さん疲れてるからまた今度遊ぼうナ」といって、子どもからの誘いを拒否するような発言はしたくない。
子どもが親に頼ったり求めたり甘えたりしてくれるのは刹那の時間(限定的)であることを自覚しているからである。
せっかく子育てをしているのに、そんなに長くはない貴重な時間を粗末に扱いたくはない。だから私は子どものイベントが平日にあれば有給消化だってためらわない。
要するに私は、休日の昼下がり、ショッピングモールの遊び場でイスに座ってウトウトしながら子どもを観察する時間よりも遊具内で子どもと全力で遊び相手をする父親でありたいのだ。
つまり、ふだんから一定の余力を蓄えていなければ休日のパフォーマンスは万全には臨めない。
私は、子どもとボールプールで戯れるためだけに仕事をセーブしているのかもしれなかった。
はてさて。私は、タイプ的に分類すれば、家族のために仕事を熱心に頑張るサラリーマンには属さない。
どちらかというと「家族を食べさせていくために身を粉にして働く」という表現が美辞麗句に感じられるし、理不尽なことがあれば有無をいわさず転職するタイプである。
無論、中途半端な考え方や無責任な行動はしない。自分が許容する範囲内で、自分のキャパシティを把握しながら最大限仕事に向き合うこと、ただそれだけである。
おそらく私にとって「家族のため」という背負わされている十字架的な表現がものすごく重荷なのだと思う。
では、どうすれば家族のために頑張れるのか。
それを考えたときに「あんまり重く考えず、ストレスを溜めすぎず、許容範囲内で全力で行動する」という結論が出た。
社会に関わる以上、ストレスをまったく溜めずには生きてはいけないが、もし溜まればその日のうちに発散、私でいえば「おいしい料理を食べてキレイサッパリ忘れる」、もうこの意識に尽きる。
極論、最低限の生活費さえ確保できていれば、それ以上仕事には没頭しない。高みは目指さない。それが私の余力の残し方であり、私の思う幸せである。
多様化が認められたこの令和時代に生きられることは、ある意味選択肢の幅が広げられるので幸福な時代と呼べるのかもしれない。
自分で考えて、自分で決めて、自分で行動する。
私が30代でようやく得た気づきを是非、キミたちは今すぐにでも身につけてほしいものである。
そう、幸せの在り方を。
takenoco

