お疲れ様でした
先日、職場の後輩に地震にかこつけてメールをした。
すると偶然、元同僚の退職送別会が行われると言う。
本当にお疲れ様でした。
就業中は込み入った話はなかなか出来ませんでしたが、退職後に連絡を下さった数少ない同僚でした。
世代も近く、頼り頼られる存在でありたかったけど、僕があっさりドロップアウトしてしまい現場ではなかなか…。
ここまで書いて、放置してる間にメールをその方から戴きました。
新しい世界へと転職されるとの事でした。
人は皆、悩みを抱えてるんやなぁ…と改めて思った。
前の職場での違和感、同じように感じてらしたことに少し救われ、でも同時にどんなに苦しくても、辛くても進む事を諦めたら駄目だ。
そうも思った。
自分は辞めておきながら、職場が気になり、別の同僚に連絡してみた。
すると‘そんなもんや、頑張ったって何も変わらない’と達観した意見が返ってきた。
無性に悔しく、腹も立った。
でもその人はまだ違う場所で介護をしている。
どんな崇高な考えを持っていたとしても、何もしていない自分よりましだ。
情けない…
やっぱ、頑張ろう。
頑張ってるなかまや、無念にも生命を落とされた方々に報いる為にも…
せいいっぱいいきなきゃ!
そばにあのこが居てくれたら嬉しいけど…それは欲張りすぎか
被災地以外
自分には何が出来るかずっと考えている。
用事にかこつけて街に出た。
日曜日と天候の良さもあって神戸は人であふれていた。
みんな笑顔だった。
何も起こって無いようだ。
凄く寂しくなった。
自分だって同じなのに…
イヤ!違う!
献血するんだ!!献血に来たんだ!
でも、献血した事の無い自分は足が向かない。結局帰って来る。
駅で募金活動をしている。
でも信じられ無い。本当に被災地に送られるのか疑わしい。
今の時代、募金箱形態の活動は相応しいとは思えない。
ただ、募金を募るだけでなく透明性を示す義務があるのではないか?自分たちの為に集めるんじゃないんだから尚更…
善意での活動だったならば、きっと結果に失望を覚えるだろう…
ごめんね。
今抱いてる感情は決して中国やスマトラ、そしてニュージーランドの震災の時には抱かなかった。
何故だろう…この感情の差は。
自分は何処までなら痛みを感じるのだろうか
テレビは悲劇映像を時間繋ぎの如く繰り返し流す。長時間生報道に隠していた醜態を徐々に曝してしまう。それを待ってましたとばかり揚げ足を取る視聴者。
まるで他人事、事例研究に嬉々としている様に映る偉い学者さん。
みんな誰のため?
何のため、怒り嘆いてるの?
きっと今、一番頑張っているのは名もない人たちに違いない。
祈りは本当に何も出来ない時にするもんだ。
何か出来る事を極限まで考えないと。
どんなに被災地を思っていても、何もしなければオシャレを楽しみに街に出て来た人たちと同じだ。
障害者や外国人の方々に情報は行き渡っているのだろうか?
被災し亡くなられた方と、
今、人知れず亡くなられた方とでは、哀しみに差が在って良いのだろうか?
強く成らなければ。


