森林インストラクターとして、「多くの人と森を繋ぐ」事を実践したいが、森に入る事がだんだん難しくなっている。

 

このコロナの事で、案内するガイドなどができないというのもあるが、それ以前に紹介したいと思える森に近づけないと感じている。

 

そんな中ではあるが、自分が居住する飯田下伊那地域には森を抜け、その向こうの集落などを結んでいた数多くの道が残されている。

こうした道は今や林業用の作業歩道と思われているが、その出来た歴史というのはそれぞれに目的や意味合いが違っている。作られたのも車が移動や運搬の手段となった現在の車道とは違い、人や牛馬の人力もしくは馬力による「より自然に近い」道として拓かれ、維持されていた。

 

よって、道のルートも重機などを用いて開削するなどのいわゆる「力技」でない分、より自然に近い…つまり人力で拓き維持していくために、崩れにくい地質・地形・湧水などが配慮されたものとなっている。

また、自動車が入られない事で、比較的多種な植生が残るのが、こうした森を抜ける古道であると感じている。

 

残念ながら多くのこうした道は失われつつある。

失われる意味には2つあり、道そのものの形と人々からの記憶。

 

多くの道が形も記憶も消えつつある中、記憶を記録として残して下さった方がいて、それを活字や地図として見る事ができる。今回はその記録を基に1つの道を踏査した。

 

今回歩いたのは長野県最南端にある天龍村内の道。

中心部である平岡からその道は続いていた。

 

平岡駅から南にある所蛇川沿いに上り、途中から三角点のある山の斜面を経て芦沢川に沿いに通ずる古道であり、明治時代に天竜川沿いに開設された郡道や、昭和に入って三信鉄道の飯田線ができる以前から同じ天龍村の十久保とを結んでいた道である。

越えていった十久保からは隣接する伊那小沢駅か、少し歩いて鶯巣駅からJR飯田線に乗って平岡まで戻る約7時間の行程計画を立てた。

 

 

神社の境内の裏手にはその当時の道が残っていた。

 

もうすぐ林道という所で

!!

 

 

大好きなチゴユリに出会う。

「稚児」と呼ばれるだけあって、とても小さくか弱い。明るい場所ではなく、木陰の少々暗い場所を好むようだ。

地元の里山でも竹林の開けた場所と、古城の跡の2か所でしか見つけた事がない。

 

この場所でも何とか残って欲しいと願う。

 

その近くには苔むした馬頭観音様と思われる石仏が佇んでおられた。

間違いなくこの道が、かつて人や荷を背にした馬が行き交う道であることを実感する。

 

その道は、現在林業のための林道へと替わっているが

 

この道については部分的に林道となっただけで、多くは山中にかつての道が残されている。

 

山腹を見上げれば、アカマツを燻蒸処理した跡が残る。

ヒノキが植林された頃はまだまだ残っていたアカマツも、徐々に枯れてきているのだ。

 

だが、道がこの辺りから不明瞭になり…

後から林道から付けられたと思われる作業道との判別も難しくなる。

 

迷いながら山腹を横移動し、下に道を再発見する

降り立って来た方角を見返して、道の形状を確かめたり

 

行こうとする方向を見て

その道が続いている事を確かめる(ここは境界調査?で道幅を示す先端が赤いプラ杭があった)

 

 

このあたりは道形が良く残っているが、その手前は崩れた岩の様子などから道としての維持が当時から難しかったのだろうなと。

 

そしてここが「休みど」と呼ばれる場所。

この辺りの古道には「休み石」といった、同じような呼び名の場所が存在している。

山で焼いた木炭やなどを降ろすには車などではなく、人の背であった時代には、「背負子」と呼ばれる道具を背負い道を行き来する中で、荷を背に休むというのは何処でもできるという訳ではなかった。

 

こうした大きめな石に背負子を乗せて一休みしていたのだ。

 

自分も今回腰かけてみた。

何を思っていたのだろう?

同行者がいれば何を話していたのだろう?…

こうした場所の事も、ここを行き交った記憶のある、もしくは父や母、祖父や祖母から話を聞いた方々からお聞きし、残さねば単なる岩のある場所になってしまう。

 

突如として眩しい光を上から浴びる

ヒノキやスギが植えられた暗い人工林であるが、時折何らかの理由で枯れたりしたことで「ぽっかり」と穴が開いた空間に遭遇する。そこには陽光が差し込み、その僅かな光と空いた空間を狙って次の木々が生長を始めている。多様な木々が育つには、こうした「ギャップ」と呼ばれる空間が必要なのだが、なかなか人為的に設けるというのが難しい。

 

その先のなだらかな尾根には、明らかに人為的に平坦に均され、

 

石が積まれ畑とされた場所が残っていた。(ただし記録にあった複数体の馬頭観音像が確認できず)

 

また、人がいた痕跡として

植えられた

 

モウソウチクが生えていた

 

 

今回、同行してくれた若き猟師の彼から

 

「イノシシがタケノコを食べた跡ですよ」と

なるほど

 

良いところを食べている。

 

見渡せば数か所に掘り返した跡があるが、この掘り方は人ではない。

モウソウチクが意外と繁茂していないのはイノシシによるタケノコの食圧が強いのだろう。

この勢いなら数年後には竹はすっかり減るのではないかと思われた。

 

この斜面から降りる道は不明瞭となり、林道へと降り立った。

 

所蛇川にかかる橋の上流で川を越えた道は、林道に沿って続いていたようだ。

 

 

この辺りを丸太で作った橋で越えていたのだろうか?

それとももう少し堅牢な構造の橋だったのだろうか?

 

この周囲にはしっかりと石積みが残り、かつての利用度の高さをうかがわせた。

 

その中に1本違和感のある樹がある事に気付く。

 

森林インストラクターが森を見る時、その場所の植生から明らかに外れたというか、違う樹種というのは「違和感」といった感覚で目に飛び込んでくる。

今回のこの樹もそう

あきらかに自生したものではなく、この土地の所有者が植えた樹であろうなと。

常緑で特徴ある葉の形と葉脈、そしてこの村の地域おこし協力隊員が以前、「生えてるんですよ」と言って持参してきていたのを覚えていたので、育つ事実があることからアレと確信し

 

「これ月桂樹だに」

と同行した彼に伝えると

 

「おお、ローリエですね」

・・・・

流石は獲った獣を自ら解体しジビエとして料理する、彼らしい答えだ。

 

天龍村は長野県だが愛知県や静岡県とも接する最南端の村。

植生が自分の住む飯田とはまた違っていて、こうした常緑の植物が自生しているので、先入観を捨てて観察しないといけない事が多い。

 

そこで、ふと手にしていた資料のカバーに何か付いているのに気付く。

マダニ だに (汗) 

慌てて手首足首そして自分の首を触ってみる。

幸いにして他には取りついていないようだ。

 

この手前のモミの木に出ていた

樹液を手に取って、その粘質度を確かめ、香りを嗅いで天然の着火剤として後で使おうと葉っぱに包んだ際、かなり手に付いたものが資料カバーにも付着し、俺を狙った奴もそれに囚われたという事か…

 

以前も鶯巣から平岡への古道踏査の際に、マダニを身体に付けたまま温泉入浴とか、それでも気づかずにもう1週間肩甲骨下で飼いつづけたとか、大平県有林でも右脇にぶら下げて帰ってきた自分が

 

よき獲物(マダニにとって)である事は解る。

歳を重ねて加齢臭というより獣臭が強くなっているからこそ、呼び寄せてしまっているのか…

 

ともあれ、苦笑いしつつ、林道から再び古道への入口を探す。

 

 

 

菖蒲(しょのれ)の窪へ【中編】 ~山腹を横切る道沿いと峠には人々の暮らした痕跡~(仮称) へ続く