ここまでの道のりを…

 

秋葉街道踏査 一日目① ~八幡町から天竜川「水神の渡し」~

 

秋葉街道踏査 一日目② ~知久平から山越、牧野内を経て上久堅へ~

 

秋葉街道踏査 一日目③ ~1番観音からすん坂、6番観音を経て金毘羅様~

 

まだ一日目が終わらない事についてはお許しを。

 

6番観音で合流した車が通られる幅の道もここまで

ここから先は当時の古道そのままの場所がほとんど。

 

左上には

13番観音などがあり、石段らしきものも残っている。

 

一番上に

13番観音である、片頬をついた如意輪観音様

 

その下には

頭部が取れてしまった地蔵菩薩と、四角く中央に丸い穴の開いた石造物。

 

 

観音様と地蔵菩薩の見つめる方向には、小川路峠のある峰々。

この日は雲が垂れ込めていた。

 

 

写真には撮っていないのだが

この左側の上の斜面は3年程前に森林整備がなされ、カラマツ以外の木々が伐採されてしまった…

それまではカラマツの間にはこうしたオニグルミなどもあって、ネズミが食べたクルミの食痕が残る殻などもあったのだが。

 

あれからこのクルミの食痕は殆ど落ちていない。

 

「からり」と林冠が空いて一見よさげに見えるようが、こうした生き物を育む木々は無くなってしまったということ。

森がヒトが必要としている木々ばかりに占められてよいものか?

 

森はヒトと共にあり、先祖達は大いにそこから得る木々や林産物を得て暮らしてきた。

確かに過剰に収奪した頃もあった。だが、人の手=人力で出来る範囲であった。

今のように機械を用いる、さらに一度に大量にという事は近世までなかった。

 

では「どうしたら よいのか」

 

という答えは…

 

緩やかに登っていくと

 

14番観音様のあった跡。

 

 

この辺りの植生はアカマツだけでなく広葉樹が増え、秋の紅葉が特に綺麗な場所。

 

すこし小高く曲がり込む角に

 

15番観音様の聖観音様。風雨が良く当たるためか、表面の風化が進みつつあり、花崗岩で出来ている事が良く判る。

 

この先に墓石があり、下って行くと…

左側の山腹に畑らしき段々が見えてきて

 

その尾根が切れ、開けた場所が見えてくる。

 

16番観音の「千手観音様」があると共に

 

 

他にも石造物散見される。

 

その中に

これまでの観音様とは形が異なる一体がある

 

 

この石仏は、喬木村からの秋葉街道に安置されていた33番観音様(聖観音)。

 

 

ここは「汗馬沢(かんばさわ)」

 

 

解説板には

「峠道の中で最後まで茶店があり、最盛期には四~五軒の茶店があったいわれている。戦後の二十年代まで人が住んでいた。

峠越えの人たちが食事やお茶をといって一休みしたので、その時期は大賑わいになったという。付近を見ると当時の人たちが耕作した畑の名残が樹木の間に見られる。路傍に「坂東三拾三番」と記された観音様がある。これは喬木村大和知の「タイヘイ坂アタマ」を1番として氏乗を通って汗馬沢の沢筋を登って来た観音様であって本街道の観音様と彫刻が違っている」とある。

 

ここから汗馬沢を下って行くと、今の矢筈ダムのダム湖に出る。県道上飯田線を喬木村から上村へと登って行く途中にある砂防ダムだが、その左手の奥がここ汗馬沢にあたるのだ。なお、県道やダムの建設の際に移された観音様数体が県道沿いに祀られている。

 

つまりここは先ほどあった千代野池からの道の合流点と同じ「インターチェンジ」に、食堂や休憩所を供えた「サービスエリア」でもあったのだ。

 

茶屋のあった平坦地の山側には石積みが残っている。

他の文献には

「昔ここには樋で水を引いて水飲み場がつくられており、馬にも水を飲ませていた」とある。

 

また

街道に面した場所には炭焼き窯の跡。

 

 

木の実として食べたのであろうか、数本の胡桃の木や畑であったであろうと思われる平坦地が確認できる。

 

なお春になると毒を含んだ「ハシリドコロ」も生えてくる。ハシリドコロは薬草ともなったことから、茶屋で栽培されていたのだろうか?

 

その先には

青い花を付けた

 

ヤマトリカブトもまとまって生えている。

毒を含む事からシカも食べないため残っているのだろう

 

 

今は木々が多い茂る斜面もかつては生える木々も“まばら”となる崩れた斜面が多数あって

 

そんな斜面の上には1体の馬頭観音とお墓らしきものがある。

 

なお、馬頭観音様は17番観音ではない。本来あった観音様の台座の後に後から立てられたと思われる。

おそらくだが、この崩れた場所で何らかの原因で大切な馬を死なせてしまった飼い主が、供養のため建てたのだろう。

もう一つの墓石らしき石碑には「雲山知勝禅定門」と刻まれている。ここで亡くなった方の法名なのであろうか…

 

現在と違って峠を越えるというのは命がけであったのだ。

 

この一帯の斜面の崩落は現在も続いており

この先の古道は崩れて通られないため、通行止めとなっており

 

古道を右下に見ながら

左斜面に付け替えられた道を歩く。

 

 

一旦尾根まで登ってから、再び古道に合流し

飯田側の「清水タレ」と呼ばれる沢と、喬木村側の上戸沢が迫る尾根へと出る。

 

痩せ尾根を渡りきると18番観音があった場所(台座も石仏も失われている。喬木村側の沢に落ちてしまったのか)。

清水タレには今も水が流れており、かつては馬に水を飲ませていた。

 

ここから崩れた斜面をジグザグに登って行く。

途中には

 

ヤマドリタケもちらほら。

 

坂を上っていくと

左側に

 

19番観音様である

 

千手観音がある。

なおこの先の尾根は降りて行けそうだが、道がある訳ではない。(かつてここで降りて行って迷ってしまった方がいた)

 

また折り返して登って行くと、左上に存在感ある古木

ヤマナシが生えている。秋になると小さなヤマナシを実らせ道にその実を落とす。

 

地表には白い細かく砕けた石が多く広がっている。

 

 

眼を凝らすと、石積みらしきものも見える。

 

 

明らかに人工的な地形の改変が見られる中に

 

20番観音様である

 

千手観音と、道標である円柱の石柱がある。

 

畑や建物跡と思われる、いくつもの平坦地の間を歩いていくと

この場所について説明する看板。

「ここは『堂屋敷』と呼ばれる場所であり、大正時代まで千代野池の人たちが石灰を焼いていたところ。石灰は石灰岩を焼いたもので、伊那谷の農家では水田への肥料として必要とされていた。ここから馬の背で運ばれた石灰は「石灰つけ」と呼ばれ、沿線の街道はにぎわった。遠山郷の郵便はこの街道を利用して運ばれており、交換所もあった」【上久堅村史】

 

他の文献には

「堂屋敷では大正から昭和の始めの頃まで伊那谷で用いる肥料用の石灰がつくられていた。近くに見える尾根の中腹より採掘し、それを木と石と交互に積んだカマの中で焼き、六貫目づつ俵に詰めて馬一頭で四俵づつ着けて運んだという。多い時には百人程の人がここで働いていたようであるが、今でもその家や畑の跡が残っている…」【歴史の道調査報告書】

 

街道に面した場所には石仏がまとめられていた。

 

 

21番観音様は?

 

右は牛頭観音様

左は千住観音様

ただ、どちらも二拾一とは刻まれていない

 

 

どうやら、右側の聖観音様が21番観音様のようだ。

なお左側は地蔵菩薩で

 

もっとも左には如意輪観音様。

本当はもう少し登った先にある茶屋跡でテント泊をする計画でいたが、16時を過ぎていたので

 

ここ堂屋敷の平坦地にテントを設営する事とした。

 

 

街道の左側(石仏の裏側)には、洞底というか凹状の平坦地があり、かつては建物か畑があったと思われる。

その特に平坦な場所を選んでテントを設営した。

 

ラジオを付けながら焚火台の上で落ちていた枝を燃やし

ソロストーブで湯を沸かしてパスタ(ペンネ)を茹で

 

サラミとピザソースを混ぜる。

 

また、

フライパンで大好物の遠山のジンギスと玉ねぎなどを炒め

 

焼肉を堪能する。

 

また、

この中にキンキンに冷やした

 

夜な夜なエールを入れてあり、一人乾杯。

 

どんどん迫る暗闇に、上空を行くジェット機の音しか人工的な音の無い場所ゆえに、独りの怖さが押し寄せる。

焚火も消え、点けていたラジオの音を消すと、闇の向こうから

 

「ハオウッツ ハオウッツ」

とこちらを伺うかのような獣の声。

 

こちらは負けじと

「ヲウウウ」と返答(笑)

相手は驚きもしなかったようで、音もなく去っていきました。

 

涼しく、ぐっすりと就寝できたテントでの一夜。