前回は秋葉街道の天竜川を松尾清水から知久平へと渡る時点で終えた。

 


街道が出来た頃はもちろん橋はなく、このときに渡った水神橋も3代目を数える。

橋が架かる明治時代以前は舟による「渡船」で、清水からは2カ所の渡し舟があったとのこと。(なお少し上流には明から虎岩への渡しもあったが、ここでは触れない)
ただし川岸すべてを舟ではなく、水神様が祀られた中州から知久平のある左岸へ渡る部分が渡船であったようだ。

 


現在は護岸に覆われているが知久平側に接岸し、現在水神様を祀る為に建てられた石製の鳥居のあたりに登ってきていた。

 


街道はここから坂を登る。その坂の入口左には道標があるが、自分は写真を撮り忘れた。

背面に知久平青年会が建てた事が刻まれた石製の道標である。

 

この坂を登り、交差を左へと進むがこの坂を「お観音坂」と呼ぶ。

 

これは近くに観音碑があることからこう呼ばれた。
知久平でも主膳と呼ばれるこの一帯には、数多くの店や旅館が立ち並び活況であった。

 

前回も触れたが、幕末から明治初期にかけてのイギリス人外交官「アーネスト・サトウ」も、飯田から小川路峠を越えて行った事を著書「日本旅行日記」にて記しているのだが、ここ知久平での出来事は強烈な印象であったようで具体的なエピソードを記している。

 

「…渡し舟に乗って四時半に知久平に着いた。渡舟場で私は六十七歳の羽場平十郎という老人に会った。

彼は船待の間、仲間に戯曲の一部を読んで聞かせ楽しませていた。舟で渡っている間に突然雷雨に襲われ、このまま越久保まで行けばずぶ濡れになるに違いないと教えられた。その時その老人が、自宅でお茶でも飲んで嵐のおさまるのを待ったらどうかと勧めてくれた。老人は知久平の農民なのだそうだ。私は喜んでこの申し出を受け、彼の家に着いて行き玄関先に腰を下ろした。
子供や孫たちが私の回りによってきて歓迎の意を示したが、一人のりりしい若者は、祖父が見知らぬ人に椀飯(おうはん)振舞いなどして馬鹿みたいだと思っているようだった。私の背の高さが賛嘆の的となり、冗談混じりに一晩だけでも泊まって背の高い孫になってくれといったが、私の仲間が荷物を持って別のルートを回っているので、このまま私が姿を見せないと心配をかけるのだと説明した。彼は非常に美味なお茶と砂糖菓子、それに自家製の酒を出してくれた。冷やで飲む酒は格別であった。

四十五分ほど待っていると雨が止み、私は分かれを告げたが、彼は街道まで是非案内したいと言い、記念に一筆書いてもらいたいと言った。私は中国語で「雨宿りの世話になったうえ極上の酒や銘茶をご馳走になり厚く御礼申し上げる」と書いて渡した。彼は明らかに読めないようだったが、私がその意味を教えると喜んだ。…」

 

飯田から和田宿までの記述の中で、ここまで行数を費やしたものはない。

それだけ彼にとって、知久平での雨宿りの際に出会った老人との出会いは強烈で思い出深いものだったのだろう。

旅でいつの時代もこうした一期一会の出会いと別れが伴うものだが、ただ通り過ぎたのではなく、受けたもてなしに大いに感謝の気持ちを抱き、その場で出来る事で返したこのエピソードは国を越えての繋がりがこの頃からあったのだと嬉しく思った。

 

現在の国道を渡ってそのまま進むと右手に巨石が見えてくる。

 

これが長野県の天然記念物に指定されている「三石の甌穴群」である。

 

自然の流れによって造られたポットホールだけでなく、その神秘さからか周囲には

 

数多くの石仏や碑が祀られている。

 

この中にはもちろん秋葉信仰を示す碑も複数ある。

 


この丘が元々川の河床であったことなど、いったい何時の頃で元の川はどこをどう流れていたのか?想像だにつかない。

 

 


街道はさらに坂を登っていくが、この眼前の丘陵はかつて城であった。
「知久平城」の跡を抜けるのだが、こうした街道を取り込んだ城というのは珍しくなく、全国に見られる。

 

一見防御においては不利かと思うかもしれないが、城の内部に街道を取り込む事で物流や人の流れを制御できたのであろう。

 


すこし小高い場所には観音堂があり、その周囲にも和夫奥の石碑や石仏立ち並んでいた。

 

また坂を登り切った平坦地にも「内御堂」と呼ばれる石碑が並ぶ場所がありここにも秋葉神社が祀られていた。

 


現在、この周囲には下久堅小学校や保育園などが立ち並んでいる。

 


街道は消防団の詰所の裏手からその先へと向かっているが、以前は保育園のある交差点から左に曲がり、昔時計工場(現在は住宅地)のある場所を経て現在の山越の集会所のある場所へと向かっていた。

 


現在歩かれる道は左に用水路が流れ舗装された市道であるが、道幅は広くなく特に現在の国道手前にある家屋の土蔵などを見ると、当時の往来や賑わいを感じられる光景である。

 

国道を渡り急な坂を登って再度国道に出ると

 

山越の集会所の上に出る。これをさらに上へと向かう。

 

 


左に土手を見ながら登る道は急だが、ふと振り返ると少し眺望も開けつつあり、少しづつだが高度をあげてきていることを実感できる。まさにこの地の地名「山越」がこうして名付けられたのではないかと思える場所である。

 


家屋があったり元畑を見ながらあがって行くと、平坦地に出る。

 

 


「牧野内」と呼ばれる場所である。昔の街道はこの右にある「山越・浅間社」から現在の家屋のある場所を通っていた。

 


山越とは違って緩やかな坂を登っていくと左手にこんもりとした森と、

 

その道際に立つ石仏をみつけた。

 

頭上に馬の頭を頂いていることから馬頭観音様とすぐに判ったが、

 

何故か台座が斜めで観音様の足下も斜めという ちょっと傾いだような「坂の途中仕様」の造りであった。

 

やがて見晴らしの良き尾根筋ともいえる場所に出るが、

 

左の塩沢川までの傾斜地に繁茂するアレチウリに幻滅する。
多くの旅人や馬が行き交った頃には決してなかった光景であり、自然と共に生きなくなった我々現代人が緩慢とではあるが、自然の中に取り込まれていく序章に見えた。

 


街道はここで大きく右に曲がる国道ではなく、広域農道を突っ切って牧野内の集落センターの下を真っ直ぐ登っていく。

 

ここからはかつての国道をなぞる道筋となる。が、今回道を間違えた。

写真にあるカーブミラーの先を左に入ったのだが、この道は誤り。

 

行き止まりであることに気づいて戻り、

 

カーブミラーの手前から左に入って家屋の裏を行く道へ。

 

これが本来の街道であり様相は山道のようになっていく。途中には切り通しのような場所もあってまさに古道。

 

水田を右に見るが、

 

その途中から左に入る細い道が街道となる。

 

 

家屋の裏を登っていくと

 

すっかり山中。舗装もされていない土の道となる。

 

やがて左から来た林道と合流し

 

その先で国道沿いの中宮の掘割(じたじた峠)からの道とさらに合流する。

 


この場所には道標があり「左ハ南原みち 右ハ飯田みち」と刻まれている。

南原は下久堅の南部、天竜川に面した集落を指す。つまりこの道標は飯田側から来た旅人向けではなく、小川路を越えて飯田へ向かう旅人に向けて記したものと言える。いつ、誰が記したとも刻まれていないところを見ると、地元民が建てたというよりは、ここで路を誤る旅人を見かねて公の機関が建てた道標であろうか。

 


ここから道はゆるやかに下っていく。

 

右には知久氏の居城であった神之峰城址や

 

北から連なる伊那山脈が見える。

 

街道はこの尾根沿いの道から逸れ、道標横の畑の斜面の中の細い道へと変わる。

 

 

もはや街道というよりは土手道であるが、それでも畑へと変わらずに残されたのは歴史の重みを感じているこの地に生きた人々の想いではなかったかと。

 


残念ながら街道はこの先にできた国道のバイパスによって失われる。

 


しかし先述のとおり、まったく失われた訳ではなく、細いながらも付け替えられた道となって現れる。

 

水路の上に掛けられた蓋の上を下りていくと

 

やがてかつての国道沿いの家屋が見え、一度合流する。

 

だが玉川の橋は渡らず左へと付け替えられた道を登り、

 

手前に見える家の裏手にある道へと右折する。

 

狭いながらも道形はしっかりしているが、

 

その先の耕作地に入ると「本当に街道だろうか」と迷う土手道へと変わる。踏査時にはここで迷い、川へ向かって下ってしまったが、古の街道は家と家とを繋いでいた事を思い出して戻ると

 

 

確かに住宅の前に残る道を発見した。
今やこれが旧街道と判る人がどれだけいるのか…だが、丘陵の縁で家々の前を結んでいたところからもこれが街道であったことが判る。

 


中平橋にて玉川を渡っているが、昔はもっと川まで下りて小さな橋を渡っていたのかもしれない。

 

 


ここからは県道となる。見上げれば三遠南信自動車道の高架橋。
三遠南信自動車道は現代の秋葉街道であり、その下を最初の道を辿って歩いているというのも感慨深いものがあった。

 

街道はここですっかり失われる。現在の県道にあった街道は途中の家屋跡から国道に向かって登っていた。

ただ、その登り口が判らない可能性があったため付け替えられた国道の法面の小段を歩く。

 

 

その先に見つけた道祖神がかつての街道の位置ではないかと推測した。

 

街道は国道を越えて

 

さらにその上の住宅の前の道へと出ていた。だが今は三遠南信自動車道のインター入口に消えたりしていたため、この区間だけは踏査せず

 

上久堅自治振興センターの前からのぞき込むだけとした。


ここでセンター内にて休憩を取らせてもらった。

これからの泊りがけでの小川路越えと、翌日の上町から和田宿までの行程やこの秋に予定されている「小川路峠に登ってみよう」のイベントにおけるガイドについて話をしたのだが、実はここで予定していた行程に遅れが生じていた。

予定では11時には1番観音に到着し早い昼を食べ12時には峠へと向かう予定だったが、そもそもスタートをのんびりした事と、背負った荷物の重さで足取りが重くなった事もありセンターに11:35到着と大幅に遅れていたのである。


このため20分程度の休憩のみで、昼を食べると決めていた「一番観音」に再び向かう。

 

街道はこのセンターの脇を小学校に向かって登り、

 

グランドの縁にそっていたと思われる。

 

 

グランドの先の延長線上に道禄神碑がある事や

 

旧道沿いに家屋があることからもそう考えられるのだ。

 


街道はここから現国道となる。馬場垣外と呼ばれる集落を過ぎれば飯田側最後の集落である越久保へと入る。

 

このあたりはかつて馬宿であった家も多く、その名残を感じさせる家屋がある。

明治の始めに飯田から八幡を経て小川路を越えたアーネストサトウもここ越久保に泊まった。

サトウはこの越久保に至るまでの記述を

 

「…ここから一時間ばかり厄介な道を登り越久保の木下屋に宿泊した。そこで第一級の部屋を見つけた。…」

 

と記している。自分もできればここ越久保に泊まり翌朝出発するかつての行程をいつかは歩きたい。

だが、今回の旅では野営地は小川路峠手前の茶屋の跡、「火いる場」と予定していたのだ。ここでノンビリしている訳にはいかない。

 


大きな造りの家々にかつての馬宿の雰囲気を見出しつつも、ここからが辛かった。

焦る気持ちと堅い舗装路を歩く事で足に疲れが出始めていた。

 

それでも浄水場前の

 

観音様を気にしたりできてはいたが、

 

いよいよ山々が迫り道の勾配が急になるとカメラを向ける元気も失われていった。


なお、この近辺の景色をサトウは

 

「…この付近の丘陵は、全体として崩れた赤い花崗岩で構成され、風雨にさらされた大きな黒い岩塊がしばしば突き出ていて今にも落下してくるような危険に常に驚かされる。このような状態なので、嵐で水量の増した川はどろどろに濁ってまさにえんどう豆のスープのようで、それが奔流となっていた…」


この記述から今とは全く違う光景が広がっていたことに驚かされる。山は激しい伐採で木々はなく、裸地が広がり花崗岩や他の岩が露出する山々で雨の度に激しく濁る川ばかりだったのだ。
それでもあの先に昼飯&給水ポイントである一番観音があると思うと、何とか踏ん張れた。

 

1番観音には12時40分に到着。

 


早速荷を下ろし、観音堂の下にある四阿にて昼食の準備を始める。

初日の昼は明太パスタ。アルコールを用いてさっと湯を沸かし、

 

コッヘルでさっと絡めて胃袋へ。

 

また、夜のパスタの準備としてジップロックにペンネと水も入れる。

 

世界のロングトレイルを旅したシェルパ斉藤さんの「ワンバーナークッキング」のレシピを参考にした。(というか軽量化を図るためにも本を持ち歩かずレシピを覚えんと…)
汗に塗れたシャツを着替えて一番観音の清水をたっぷり保水し、またぐっと重くなったザックを背負って

 

トレッキングシューズから登山靴へと履き替える。

 

一番観音様にこの旅の成功と安全を祈願して出発!


この容量でまだ1番観音…いったいいつになったら峠に着くのやら(汗)

~秋葉街道踏査 一日目③ 1番観音からすん坂、6番観音を経て米川辻(金毘羅様) ~へ続く。