「秋葉街道」とは遠州(現在の静岡県)にある秋葉神社(浜松市天竜区春野町領家)へ参詣するために盛んに利用された道。秋葉神社の周辺にはこうした参詣のための道がいくつもあり、どれも秋葉街道と呼ばれていた。

私の住む長野県においては、静岡県境の青崩峠を越えて遠山谷へと入り遠山郷(南信濃・上村)を経て地蔵峠を越え、大鹿村。それから分杭峠を越えて長谷、高遠(現在の伊那市)へと至っていた街道がメインであった。

 

自分が歩こうと思い立った、飯田市八幡町から天竜川渡って知久平や越久保を経て、小川路峠を越える秋葉街道は、伊那谷側から秋葉神社を目指すには最も利用された街道で、現在の国道256号線がそれにあたる。

 

今回、できるだけ往時の街道を自らの脚で歩き、かつて行き交ったであろう人々と同じ風景を見てみたいと思い、八幡町から小川路峠を越えて上村へ出て南下、南信濃和田宿までを歩いてみた。

数多くの思い出があるが、出来るだけ割愛しないよう撮影した写真を振り返りながら何回かに分けて載せたい。

 

 

泊まったゲストハウスを出て、朝食前に昂ぶる気持ちを抑えようと周辺を散策する。

 

かつて飯田からの道は、この坂道を常盤台から下ってきていた。
今の八幡町を走る国道は、近世になって桑畑の中に開けられた道で、江戸時代には遠州街道は この坂を上って飯田へ行っていたなんて今や誰も思わないだろう…。

随分と変ってしまったが、名残として常夜灯が残っている。




振り返って見る旧道沿いには、往事の賑わいを感じさせる旧家や蔵が立ち並んでいる。



今回宿泊させてもらった「ヤマイロゲストハウス」のすぐ脇には、

 

 

 

かつて馬をつないだという

 

 

「馬つなぎ石」も残っている。

この通りに馬が繋がれてたんだに!想像がつかぬ。


この八幡町の中心となるのが「鳩ヶ峰八幡宮」。

創建は中世鎌倉時代で、その時々の支配者である豪族や領主が変わろうとも、永きにわたり松尾地区の村社として地域の信仰を集めてきた。現在でも毎年盛大にお祭りが行われている。


歴史ある神社だけに、大切にされてきた木々も目に付くが、この神社ならではなのが滝に代表される豊かな水。


上段の台地から引かれた水は、落差を生かしての滝がいくつもあり、かつてはここで行者が修行していたとか。

 

幕末から明治初期にかけてのイギリス人外交官「アーネスト・サトウ」も、飯田から小川路峠を越えて行った事を著書「日本旅行日記」にて記しているのだが、この神社の滝についても

 

『…低い丘を経て八幡へ向かう。ここで白衣をまとって立派な顎髭と口髭を蓄えた堂々とした行者に出会った。八幡神社は長い階段を登った頂部に建っている。上の丘から流下する川は、自然にいくつかの滝を作り、そこで行者が身を清める』と記している。かつてはこの滝に打たれて、白装束の行者達が水行をしていたのだ。


本殿への階段下から見上げると、その石垣や境内の木々に圧倒される。



狛犬も随分昔に造られたものでしょうか?

現在よく見る勇ましい姿とは違って、特徴的です。

 

 


ちょっと小さめで控えめに開く口が可愛い



境内の木々は大切に管理されており



太く巨木に育っている



アーネスト・サトウも
『…両側の丈高い立派な杉並木の、列を割ってのびる階段の最上段からの眺めが美しいということだ…』 と記している。この杉はサトウがみたのと同じものなのだろうか?今や町並みでその向こうの光景は望めないが、雰囲気は感じられる。



その鳩ヶ峰八幡宮の鳥居の前から東へと延びているのが、秋葉街道である




交差点にある宝暦年間に建立された道標には「右しもじょう 左あきは 道」と刻まれている。

ここが遠州街道と秋葉街道との交差点であった証。ここから飯田の秋葉街道は始まる。


朝の散歩を終え

ゲストハウスに戻って、旅の支度を整える。前の晩は準備不足もあって気持ちに余裕なかったせいか眠りが浅かったが、このドミトリーは天井の梁が剥き出しで見た目もすごかったし、何よりベットが快適だった。

また今度ゆっくり泊まりに来たい。




昨年末に宿泊した際は時間がなくて食べられなかった朝食を今回は頼んだ。

予想以上の内容と量に大満足(もちろん完食)。しっかり朝から食べることが出来、今思い返せばその後の峠道にてバテずに済んだのは、この朝食のおかげ。



出発時、オーナーの中村さんに撮影してもらう。
少々緊張気味?www

 


【9:00】ヤマイロゲストハウスを出発。



出発してすぐの土間コンに残された「小さな犯人」の痕跡を見て笑いながら足を進める。

 


交差点を渡り、下って行く。

 

 


以前はこの国道が街道ではなく、北側の松尾小学校の横を下りる道が旧道であったとのこと。
昔も今も道は移り変わるものなのだ。



松尾自治振興センター前を過ぎた歩道橋の東側には、「城・おたちゅう」と呼ばれる石碑群があり、



秋葉大権現と刻まれた石碑や秋葉山の常夜灯、また馬頭観音も祀られている。

飯田下伊那にはこうした信仰を示す石碑が数多く残されている。



この場所から秋葉街道は現国道から逸れ、左の道へと入っていく



やがて「(明の)四つ辻」に至る。真っ直ぐ突っ切らず、

 

 

右折した用水路沿いの道が旧街道となる。水路は改修されているが、道幅は当時に近いのではないかと思わせる。



この場所にも道標があり、「飯田道」「秋葉道」「伊久道」「村道」と四面に刻まれている



道沿いには大きな蔵もあって、かつてこの道が重要な幹線であったことが伺える



やがてかつて天竜川の氾濫域であった下段に降りるため、左へと曲がり下って行く。



そしてこの三叉路にも道標。



だがこれまでの道標と違って自然石(川原石)をそのまま利用しており

 

 


「右 秋葉みち」と刻まれている。(犬にマーキングされているのは気の毒だが…)



この先に見えるのは祝沢川。現在はコンクリート製の暗渠で横断している。

当時はこの場所に橋が架かっていたのだろうか?



現在は国道256線が横切り、すっかり分断されているが元々はコチラの道が本道。

秋葉街道は右の段丘下の道へと続いていく。



街道沿いに用水路があるのは、この水路が当時から様々な用途で利用されていた名残だろうか?



ここで左へと曲がるのだが、この角にあったとされる自然石の道標はなかった。

振り返って見ると、この敷地の中に寝かせて置いてある巨大な川原石があり、おそらくそれが道標。
「東水神橋」「北明城経八幡」「西毛賀???遠州街」と刻まれていたようだが、どうやら出入りに支障となったのか?



その先の交差点を直進し



堤防に突き当たった場所が初代の水神橋のあった場所。

写真には写っていないが、この右には草叢の中に馬頭観音や水神が祀られた石碑がたたずんでいた。

昔は堤防もあってもさほど高くはなく、対岸が望めたのかもしれない。

 




階段を登り、堤防上から初代水神橋の架かっていた方向を見る(初代水神橋はここからほぼ直線。中州の島を経由して対岸の知久平を結んでいた)
なお橋が出来る以前の渡船は、この下流(二代目水神橋)と上流(祝い沢合流)の2カ所から天竜川を渡っていた。

【9:45】
残念ながら渡船という訳にはいかないので、現水神橋を渡る事とする。

橋の上から渡船のあったと思われる場所を見る。



流れも中州の形状も当時とは異なるだろうが

 

 

この場所を舟を用いて渡っていたのかと思うと感慨深い。

 

秋葉街道踏査 一日目② ~知久平から牧野内を経て越久保へ~ と続く