My running life②
山の中を走るトレイルランニング(トレラン)、元々登山をやっていた私はなんでわざわざ山の中を走るのだ?と最初はその楽しさがわからなかったのです。しかし、徐々にその爽快さ、そして走る事でより早く、より遠くへ行く事が出来るという魅力にハマっていきました。
そのトレランでも目標がありました。日本山岳耐久レース長谷川恒男カップ(ハセツネ)を完走する事です。奥多摩の山々をぐるりと繋いで71.5kmを補給も無し(途中一箇所だけ水を補給出来るポイントがあります)で必要な物は全て自分で担いで24時間以内に踏破するというとても過酷なサバイバルレースです。
ハセツネとは、登山家である長谷川恒男氏を象徴とした伝統ある山のレースです。こんな馬鹿げたレース(当時はそう思っていた)にFBの仲間はチャレンジしていて、ただただ憧憬の眼差しでその投稿を眺めていたのです。
今の自分にはまだ無理だ、、 でもいつかは、、、
そんな思いを胸に秘めながら、赤城山トレイル30km、武尊スカイビュートレイル60km、徐々に距離を伸ばし2014年、いよいよハセツネに挑もうと思ったその年の夏。またもや自分の前に大きな壁が立ちはだかるのです。私は髄膜炎という病に侵されてしまったのでした。
1週間ほど微熱が続いた後に季節外れのインフルエンザのような高熱。意識が朦朧とする中で医者が家族に説明をしているのが聞こえました。『大変重篤な病気です。死に至る事もあるし、回復しても何らかの後遺症が残る可能性があります。覚悟してください。』え? 誰の事?オレ?それはまるで他人事のように意識の遠くから聞こえてきたのでした。
病との闘いが始まりました。その当時認可させれている中で最も強い抗生剤を投与し高熱と幻覚で一週間うなされ、もう一生自分は幻覚を見ながら生きて行く事になるのではないかと思われる程でした。そして次の一週間は強い抗生剤に身体が耐えきれず、肝臓が悲鳴をあげでGTPの数値が跳ね上がり、身体を思うように動かす事も出来ず、虚ろな目でだだ虚空を眺めて過ごす毎日。2週間の闘病を経て8月2日に退院した時はまともに立って歩く事も辛いぐらいに脚は痩せ細り、げっそりとした顔つきは亡霊の様だったのです。
その時は流石に自分でも2ヶ月後のハセツネへの参戦は無いなと思っていました。
1kmを歩くところからのリハビリの始まりです。走り始めた頃の初心に戻り、ゼロからのスタート。お盆を過ぎた頃には体力も少しずつ回復してきました。
そうなってくると考えるのは、もしかしたら、、、?
どういうスケジュールで調整すればハセツネに間に合うだろうか? と考え始めたのです。
4月のハセツネ30kmで本戦へのエントリー資格は取得していた事もあり、やはり諦めきれないのです。
これはこの年の9月のスケジュール帳です。
(ちゃんと仕事もしてますからね!)
7日にアップダウンの激しい草津の10kmレースに出場。途中で何度もやめようと思ったけどラン仲間の浜ちゃんに並走してもらいながらなんとか完走。本当に浜ちゃん、この時はありがとう!
15日に20km。20日に30km。それぞれのステップでダメならば出場は諦めようと思っていたのです。なんとか課題をこなしていきました。最後に28日に50km。ゆっくりでもいいからこの50kmが走れれば出場する資格はあるだろうと自分で決めていました。9月とはいえこの日もかなりの炎天下です。7時間近く動き続け走りきる事が出来ました。この月は189km走ったと記録されています。まさに執念。10月4日には仲間と共にハイテク駅伝に参加。久しぶりに心拍を上げて5kmを走り、トレーニング完了。やれる事は全てやった。後は当日を待つばかり。しかし、当日まで誰もが私の出場を本気にはしていないようでした。
普通の状態で走っても夜通し眠らないで走る過酷なレースに、病み上がりで出場する事に不安はありましたが、これを目標に積み上げてきた日々がようやく報われるのです。
スタートは10月12日の午後1時。
MCが会場を盛り上げます!
『さぁ 変態の祭りの始まりダァー❗️』
(確かこんな事を言っていたような記憶があります笑)
『ウォー❗️❗️』
カウントダウン そしてスタート。
自分は何者なのか?
プライドをかけた闘いの始まりです。
レースは当然、困難を極めたものになりました。その様子はこちら。当時のFBに投稿したものです。
https://www.facebook.com/miki.kaname.7/posts/728663547213477
全てを出し切り、17時間44分39秒で完走する事が出来ました。
髄膜炎で入院してから一年後、2015年の7月には御嶽トレイル100kmに参戦。朝の4時に起きて長野県の会場に向かいそのまま寝ないで0:00にスタート。いつもならとっくに寝ている時間。スタート直前はとにかく眠かったのを覚えています。14時間18分47秒で完走出来ました。34時間以上起きていたわけで、、 さすがに疲労困憊。でもこの経験から眠らなくてもなんとかなるという変な自信がつきました(笑)
その年の11月には再びハセツネに挑戦。
この年は体調も良く14時間8分31秒と大幅に記録更新。あまりタイムを意識していなかった割には良い結果となり、これでようやくハセツネを制覇したという気持ちになりました。
同じ年の12月。初めてフルマラソンを走った佐野マラソンに再び参加。ベスト更新を狙ってトレーニングしてきたのですが、直前に風邪をひいてしまい呼吸器系が調子悪くなってしまいました。そこで、タイムは狙わず、でも何か別な負荷をかけようとbarefoot 裸足で走る事にしたのです。ゆっくり走ろうと思っていたのに意外と調子が良く、裸足で走っている事でアドレナリンが出ていたのか痛みも感じる事なく3時間46分49秒。裸足で4時間切りの完走。しかし、この時の走りが原因でモートン病(モートンフット)になってしまい、今でも完治せず。ランニングから離れる1つのきっかけになってしまったのです。
モートンフットになってしまうと人差し指や中指の裏側に針で刺したような痛みと痺れが出てしまいます。神経が骨に触っているのです。私の場合は7kmぐらいからその症状が現れ、我慢していると消え、また現れる。その繰り返し。以前の走りは出来なくなりました。
まともに走る事が出来なくなった私が最後に考えていたのはUTMF ウルトラトレイルマウントフジ。富士山を中心に外周の山々を繋ぎ全長165kmという日本屈指の壮大なトレイル、100マイルのレースです。誰もがエントリーできるわけではなく、大会規定のロングトレイルの完走によってポイントを取得していなければなりません。私は参加可能なポイントを取得していたのです。 このレースを最後にしよう。大会に出て競い合うような走りは終わりにしよう、そう考えるようになりました。
最後のレース。今までのラン人生の集大成。そいうい覚悟を持ってスタート地点に立ったレースでした。
しかし、天候は荒れ模様。スタートを1時間遅らせるアナウンス。しかし、雨は降り続け、大雨警報は解除にならない(警報が出ていると国の管轄の林道等は通行が出来ないそうです)
天候は回復傾向であるという予報を見越して1時間遅れでスタート。道は悪く、登山道はドロドロ、田んぼの様な遊歩道、川の様に水が溜まった道を避けてランナーは草地を踏んでいく、、、 トレイルランナーの増加と共にランナーと登山者の共存や山道を走る事での自然環境の破壊等、様々な問題が取り沙汰されている中、正に自然が壊されていく状況を目の当たりにし、とても複雑な気持ちになってしまいました。その後、結局警報は解除されず、コースは大幅に短縮されおよそ44km地点のチェックポイントをゴールにするという何とも消化不良なレースになってしまいました。
中途半端な時間に中途半端な場所に放り出され、中途半端な結果に心の何処かにぽっかりと開いた穴。寒さと虚無感に身体はブルブルと震え私は1人で途方に暮れていたのでした。
このレースの後には地元足利で毎年開催されている参加者200人程度のローカルレース仙人ヶ岳トレイルランを走って全てのレースの予定が終わりました。
病気になってしまったり、怪我に苦しみ、思う様な走りが出来なかったり、決して順風満帆なラン人生ではなかったけれど、それでも走り続けて来れたのは、時に励まし合い、時に競い合った仲間がいたからです。共に走り酒を飲み語り、年齢や仕事の枠を超えた付き合いの出来る素敵な仲間がいたからです。ありがとうございます。本当に感謝します。
2011年から今まで、ある意味趣味の域を超えて本気で走ってきました。
暴風雨の中を走り、滝の様な雨に打たれ寒さに凍え、炎天下にさらされ熱中症になってしまい目の前が真っ暗になって倒れそうになった事もありました。痛む脚を引き摺りながらとぼとぼとゴールまで歩いた事も何度もあります。キツかった事、苦しかった事が思い出されますが、その反面、ふとした瞬間に頭をよぎるは雨上がりに雲の間から見えた美しい星空であったり、林の向こうに見え隠れする月に、導かれる様に走ったトレイルだったり、朝靄の中で見た幻想的な湖だったり、山頂から見たキラキラ輝く夜景に励まされた事だったりするのです。
本当に楽しかったな〜❗️
My running life❗️
新たな私の挑戦は続きます。
life is a painting a picture,not doing a sum.