㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
家にほど近い道路わきで車から降ろしてもらい、ジェシンは一旦家に戻った。しばらく真面目にしていよう、そう思ったのは、母がジェシンの世話を生き生きとしてくれたせいかもしれない。
まだ兄ヨンシンの死が重くのしかかる家族の心情の中で、母だけが発散する場所を持たずにいる。気づいていたけれど、自分の気持ちを持て余すことで精いっぱいだったジェシンは、気を紛らわせる場所と時間が必要だった。父は仕事に没頭できた。母だけが、息子の思い出の残る家に居なければならなかったのだ。これに関して、ジェシンは申し訳ないとは思っている。父も同様らしく、ただ、不器用な性格はうまく母を慰めることが出来ず、家に居ればただ一緒にいるしかできないのだろうというのがジェシンの観察の結果だった。結局のところ、ムン家の男二人は、全くの役立たずだった。
それでも一年以上たった今、母は少しずつ周囲のことに視野が広がってきた。ジェシンに対する態度もそうだ。素行を気にし、その行動範囲を心配し、健康を気遣い、服装に目を配る。数年前の母が戻ってきた。少しずつ、少しずつ。それはジェシンにとっても心が休まることだった。
ジェシンだって自分がこのままうろうろとしていてはいけないという自覚はある。ただ、あまり変化のなかった少年時代と違い、外の世界、それも夜の世界は刺激的で、そして会った事のない人たちで溢れていた。店長のジョンを筆頭に、何をしていたかわからないようなボーイ頭からこいつは良い家の生まれなんじゃないのかな、と感じるウエイトレス。ヨンハの周りに群がる女の子たちは、まあ、いわゆる庶民階層の子たちだろうと思うが、時に鋭い視点を持つ子もいる。昼間は学校に通っている子もいる。商売をして儲けている客、土地を貸したり売ったりして金を手にした客、最近多いのは酒造をしているものと紡績関係。皆まだ競争相手が少ない間に市場を独占したいと規模を拡大し続けている。そして兵士や将校。ヨンハは英語の習得も目的と言い放つ通り、会話ぐらいなら平気でこなしている。変なことを言って笑われても、じゃあどういうの、と聞いて教えてもらうあの人懐っこさは正直凄いと思う。けれどヨンハはジェシンと同じで、どんなに大人ぶっていても、夜には溶け込めていない。本当に『お客様』なのだ、夜の世界からすれば、ジェシンもヨンハも。
戻らねばならないとは思っている。母のため、ではない。勿論母は真面目に学生をするジェシンを喜ぶだろうが、ジェシンは母のためでなく自分のためにちゃんと自分を育てなければと思うようになった。それは夜の世界を見たからだけでなく、戦争中に自分の無力さを叩きつけられたからだ。
何もできない。子供だから守られる側だとしても、足手まといでもあった。父が働くために、母とジェシンは都市から離れたところに移された。兄は働く場を与えられる年齢に達していたし、自分の意志で選ぶことができた。ジェシンは自分の意志さえ出してはならなかった。邪魔だからだ。母を守れとは言われたが、何をどうすればいいか、わからないままで戦争は停戦した。
運が良かったんだよ、と言うジョンだって、結局は自分で居場所を確保した。その働きで、考え方で。従業員の何人かもそうだ。学校へ行きながら夜は店で酒を注ぐ女の子は、大学に行って教師になると言っている。もう一人は、服が好きだから、裁縫の学校に行きたい、と金を溜めている。そうやって生きている女の子たちは、ジェシンと年がそう変わらない。自分は何をやっている、と思い始めたところだった。
腕っぷしは強い。武道を好んでトレーニングしてきただけのことはあり、喧嘩には負けない。だがそれで生きていくつもりはない。全部中途半端。役に立ったのは、あの子を守った時ぐらいだ、とジェシンは自室で思い至ったとき、ふと、あのユンシクという少年の姉は、これからどうするのだろう、と思った。
弟の看病をして、弟の薬を抱えて夜を急ぐ少女。あの子は、その行く先に何を見ているのだろうか。弟のためだけに生きているわけではないはずだ。自分が母を喜ばせるためだけにまじめな振りをするのと同じで。
聞いてみたい、と思った。