㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。
ご注意ください。
ふと意識が浮上した。香りがしたから。
そして耳に染み入るように漂ってくる低い声。傍近くにあるのが分かる。ああ、と思う。抱かれている、と。温かな腕を枕に、頬をその人の胸にうずめて、包まれているのだ、と。
目は覚めてきた。けれどじっと聞き入った。低い声は吟じていた、詩を。それはユニもよく知っている、詩経の中の一篇『桃夭(とうよう)』
桃之夭夭 桃の夭夭たる
灼灼其華 灼灼たりその華
之子于帰 この子ゆき嫁ぐ
宣其室家 その室家によろしからん
桃之夭夭 桃の夭夭たる
有蕡其実 ふんたるありその実
之子于帰 この子ゆき嫁ぐ
宣其家室 その室家によろしからん
桃之夭夭 桃の夭夭たる
其葉蓁蓁 其の葉しんしんたり
之子于帰 この子ゆき帰(とつ)ぐ
宣其家人 その室家によろしからん
みずみずしい桃よ
花はなやかに
この娘はお嫁に行く
きっと嫁ぎ先の良いお嫁さんになるだろう
みずみずしい桃よ
実はずっしりと
この娘はお嫁に行く
きっと嫁ぎ先の良いお嫁さんになるだろう
みずみずしい桃よ
葉はふさふさと
この娘はお嫁に行く
きっと嫁ぎ先の良いお嫁さんになるだろう
誰の作かもわからない。しかし、邪気を払うと言われ、長寿の実である桃を嫁ぐ娘になぞらえたこの詩は、生命力とこれからの豊かな実りある人生を寿いでいる。語感はかわいらしく、けれど整った言葉の連なりが美しい。
ユニは夢うつつにうっとりと聴き、そして目を開けた。慌てる必要などなかった。思った通り、ユニの大好きな温かくて大きな腕の中で胸に抱かれていた。
ジェシンは部屋に入って座ると、つくづくとユニの寝姿を眺めた。疲れただろう。重い装飾品と衣装は取り払われているが、いつもよりも高く盛っている黒髪、白の練り絹の寝衣がそのあどけない寝顔と裏腹に色を浮かべさせているように見えた。ふむ、と一瞬動きが停まっていたジェシンだったが、ユニの無邪気な寝顔を乱そうとは思えず、そっと自らの帯を解いた。
衣擦れの音もさせないように、普段のジェシンからは誰もが想像もできないほど、静かに婚礼衣装をほどいていった。金糸の入った帯を取り、濃紺の道袍をそっと脱いだ。新調されていた黒いパジは布も豪華に使いパリッとしていたが、それも立ち上がって音もなく脱ぎ去り、単衣姿になった。ポソンも脱ぎ捨て、衣装でひと山作ると満足し、たたまれているのが目に入った自分用の寝衣を横目でにらんだ。
面倒だな。
ジェシンはそう思うと、もう寝衣など目に入らなくなり、ユニを見つめた。脇息に置いた腕に頬を押し付けて唇を尖らせてふう、ふうと静かに寝息を立てている。腕に押し上げられた頬が窮屈そうでふと笑ってしまった。ああ、桃のようだ、と。やわらかい桃みたいに膨らんじまっている、と。
にじり寄り背後に回る。力の抜けたからだと脇息の間に膝を突っ込み、わきの下に腕を入れ、そっと脇息を外していった。しっかりと頭の重みを受け止めた腕をゆっくりと上げていき、頭を胸の上に固定してやると、ユニはあっさりとそこにもたれて寝入っている。どれだけ疲れてんだ、とおかしいやら物悲しいやらで頬が緩む。
化粧をされ、髪も丁寧に椿油で梳かしつけられていたユニからは、いつもと違う濃い香りがした。つい、ユニ本来の香りを探して顔を近づけてしまう。甘い、綻びかけた花のような香りを探して。
そんなとき、不意に口からまろび出たのが、『桃夭』という詩教の中にある一篇だった。誰が作者かもわからない。けれど、不意にジェシンの中に浮かんできたその詩は、まるで先ほど笑んでしまったユニの頬を謳ったかのようなものだった。温かな胸の中の塊。今度は自分の胸にその柔らかな頬を押し付けている可愛い娘。ムン家の良い娘であり、そしてこれからムン家の良き若妻になるユニ。言葉すべてが寿ぎのこの詩を、ジェシンはゆっくりと紡いだ。
そして吟じ終えたとき、ぱっちりと瞳を開いたユニと目が合ったのだ。