ディズニーランドの満足度は下がり続けているらしい。
私はその話を聞くたび、ひとつの仮説を思い浮かべる。
夢の国から、魔法が消えたのではない。
偶然が消えたのだ。
かつて「夢の国」と呼ばれていたその場所は、ある日突然壊れたわけではない。
瓦解はもっと静かだった。
便利さという名の小さな習慣が、少しずつ侵入したのである。
今や夢の国では、何をするにもまずスマートフォンを開かなければならない。
入場。
食事。
アトラクション。
待ち時間。
ショーの抽選。
すべては画面の中を経由して与えられる。
顔を上げれば、そこには丹念に設計された世界が広がっているはずだ。
建物の色彩。
路地の曲がり方。
聞こえてくる音楽。
季節ごとの装飾。
何十年もかけて磨かれてきた魔法の痕跡。
しかし人々の視線はそこにない。
誰もが首を垂れ、
手のひらの光へ意識を預けている。
それは便利さではない。
もはや儀式である。
夢の国へ入るために、
現実の端末へ祈りを捧げる儀式だ。
思えば、ディズニーランドには鏡が少ないと言われる。
なぜか。
人々を現実へ引き戻さないためである。
鏡は最も手軽な現実装置だからだ。
自分の顔を見る。
年齢を思い出す。
日常を思い出す。
だから排除された。
夢を守るために。
それなのに今はどうだろう。
ポケットの中には、
鏡どころではない装置が入っている。
LINE。
SNS。
ニュース。
仕事の通知。
現実そのものが詰め込まれている。
夢の国にいながら、
人は何度も現実へ呼び戻される。
魔法が解ける。
そしてまた画面を開く。
だが問題は、それだけではない。
テーマパークとは本来、
偶然を体験する場所だった。
予測不能な世界。
効率では測れない空間。
たまたま待ち時間が短かった。
たまたま最前列になった。
たまたまキャラクターに出会った。
その「たまたま」が嬉しかった。
幸運とは、
期待を超えてやって来るから幸運なのである。
しかし今は違う。
アプリが教えてくれる。
混雑状況。
待ち時間。
最適ルート。
最も効率の良い行動。
すべてが事前に分かる。
つまり偶然が減る。
驚きが減る。
上振れが減る。
考えてみれば、
これはディズニーランドだけの話ではない。
現代人は人生そのものから偶然を追放し始めている。
旅行前にレビューを見る。
店に入る前に評価を見る。
映画を見る前に感想を見る。
人と会う前にSNSを見る。
失敗しないために。
遠回りしないために。
最適解を選ぶために。
だがその結果、
私たちは驚きまで失ってしまった。
便利さとは何だろう。
便利さは幸福の期待値を上げる。
失敗を減らす。
損を減らす。
無駄を減らす。
しかし同時に、
幸福の上振れまで削ってしまう。
人生を平坦にするのだ。
先日、私は高校時代に少し気になっていた女の子と電車で偶然再会した。
二年ぶりだった。
約束もしていない。
連絡も取っていない。
ただ偶然そこにいた。
数秒言葉を交わしただけだった。
だが、その数秒は最近見たどんなショート動画よりも価値があった。
どんなアルゴリズムも、
あの再会を推薦できない。
どんなAIも、
あの瞬間を予測できない。
偶然だったからだ。
そして人生を変えるものは、
たいてい偶然の側からやって来る。
人類は便利さを求めた。
効率を求めた。
最適化を求めた。
その結果、
世界は以前より快適になった。
しかし私たちは、その代償として魔法を失いつつある。
わからないから美しいものがある。
知らないから心が動くものがある。
予測できないから忘れられない瞬間がある。
テーマパークの最高の魔法とは、
城でもパレードでもない。
偶然だったのだ。
そして今、
その魔法は静かに姿を消し始めている。