僕は移動が嫌いだ。

 満員電車も嫌いだし、乗り換えも嫌いだ。 

できることなら、一生同じ場所にいたい。

だが不思議なことに、人間は移動をやめられない。

家を買った人も、 

故郷に残った人も、

 同じ会社に勤め続ける人も、

 皆、移動している。

なぜなら、時間という絶対的な流れの中にいるからだ。 

定住とは移動の停止ではない。 移動しているという事実を見えなくする、錯覚にすぎない。

電車に乗ると、面白いことに気づく。 

人類は身体を移動させているのではない。

「暇」を運んでいるのだ。

ほとんどの人がスマホを見ている。

 映画、ショート動画、ニュース、X、LINE。

 同じ車両に箱詰めされているのに、誰も同じ世界を見ていない。 

身体だけがここにあり、精神は別々の場所へ出勤している。

令和という季節は、少し奇妙だ。

 便利になり、移動は速くなった。 

それなのに、人は昔より忙しそうに見える。

理由は簡単だ。

 他人を意識する時間が増えたのだ。

Xを見ていると、巨大な教室を思い出す。

 昨日はあの人が笑われ、今日は別の誰かが笑われる。 

皆、自分の番ではないことに安心しながら、それを見つめている。

人は正義を執行すると快感を覚えるらしい。 

もしそうなら、炎上とは最も手軽な娯楽なのだろう。 

ゲームより簡単で、映画より安い。

 誰かを悪者にするだけで、一瞬にして自分を善人に仕立て上げられる。

そんな車内で、本を読む人を見る。 

少しだけ尊敬する。

 雑踏の中で一つの思考を保ち続けるのは、一種の才能だ。

しかし同時に、問いが浮かぶ。 

あの読書に、どれほどの意味があるのだろう。

僕は本を読むと、忘れないように記録をつける。 

だが最近、考えが変わった。

忘却は欠陥ではない。人間の防衛機能だ。

 失恋も、屈辱も、喪失も、忘れられなければ人は生きていけない。

では、なぜ人は忘れてしまうのに本を読み、動画を見て、SNSを開くのだろう。 

知識のためだろうか。

 単なる暇つぶしだろうか。

違う気がする。 

人は情報を消費しているようで、本当は「意味」を消費しているのだ。

推しを追う。炎上を眺める。物語を読む。ニュースを開く。 

どれもが、今日を生きる理由の補給だ。

そして面白いことに、意味を売る側の人間も変わらない。

 作家も、YouTuberも、ミュージシャンも。

 意味を供給しているようで、本当は自分自身のための意味を探して作品を生み出している。

だからこそ、電車の中の風景はどこか異様だ。

 誰もが何かを見つめ、聴き、読んでいる。

 まるで沈黙が病気であるかのように。

もしかすると私たちは、退屈から逃げているのではない。

 自分自身から逃げているのだ。

スマホを閉じ、本を閉じ、音楽が止まった瞬間。 

そこに現れるのは、他ならぬ「自分」だからだ。

止まりたいと思っても、時間は僕たちを明日へと強制的に連れていく。

 目的地がどこなのか、本当は誰も知らない。

 人生の成功か、幸福か、あるいは死なのか。 

それでも僕たちは進まされる。

だからこそ、人は「意味」という名の燃料を必要とする。

電車の中を見渡す。

 誰もが画面にしがみついている。

その光景はどこか滑稽で、どこか切実だ。

皆、ただの暇つぶしをしているのではない。

 強制的に進まされる時間の中で、 自分という存在を明日へ運ぶための燃料を、必死に探しているのだ。

他人から見れば、それは取るに足らない物語かもしれない。

 推しでも、恋愛でも、夢でも、読書でもいい。

人は意味によって生きているのではない。

 意味という燃料によって、今日もどこかへ運ばれている。