「自分のことが好き」と「自己肯定感が高い」。

似たような意味で使われる二つの言葉だけれど、本当に同じものなのだろうか。

数学なら、二つの命題が同じ意味を持つのか、それとも必要条件と十分条件の関係にあるのかを考えるところだ。

たとえば、自分のことが好きな人は、必ず自己肯定感が高いのだろうか。

逆に、自己肯定感が高い人は、必ず自分のことが好きなのだろうか。

どうも、そう単純ではない気がする。

自己肯定感というものは、案外、他人との関係の中で育つ。

誰かに勉強を教えて「ありがとう」と言われる。

仕事で重要な役割を任される。

部活動で自分が必要とされる。

委員会で責任を持つ。

そういう小さな経験の一つ一つが、「自分はここにいていいのかもしれない」という感覚を作っていく。

そう考えると、小学校や中学校に委員会活動や係活動、部活動、課外活動があることにも別の意味が見えてくる。

あれは単に学校生活を運営するための仕組みではなく、自分の存在が誰かに影響を与えることを覚えるための練習場なのかもしれない。

そして大人になるにつれて、その機会は本来もっと増えていく。

仕事を任される。

お金を稼ぐ。

誰かを助ける。

後輩を教える。

家族を支える。

社会の中で、自分にしかできないことが少しずつ増えていく。

だから本来なら、大人になるほど「自分は何者でもない」という感覚は薄れていってもよさそうなのだ。

ところが、そうならない人もいる。

恋人がいない。

友達が少ない。

SNSで誰かの生活を見る。

自分より若い人が成功している。

同世代が結婚している。

同世代が稼いでいる。

そんなものを見ているうちに、自分の人生だけが止まっているような気がしてくる。

「恋人がいない」という一つの事実が、いつの間にか「自分には魅力がない」という人格全体への判決になってしまう。

でも、これは自己肯定感の問題として考えるなら、少し奇妙な話でもある。

恋人がいない。

それなら、恋人以外の場所で自分が誰かの役に立っていることを確認すればいい。

仕事をする。

勉強する。

誰かに何かを教える。

小さな約束を守る。

昨日できなかったことを今日できるようにする。

自己肯定感は、案外こういうところから回復できるのかもしれない。

しかし、ここで一つ問題が残る。

自己肯定感が高ければ、自分のことを好きになれるのか。

僕は、そうではないと思う。

たとえば、容姿にある程度自信がある。

仕事もできる。

収入もそれなりにある。

人から必要とされている。

「自分は十分やれている」と思える。

それでも、自分の性格の細かいところが嫌いかもしれない。

小さなことをいつまでも気にする自分。

人に嫌われることを恐れる自分。

過去の失敗を何度も思い出す自分。

素直になれない自分。

そんな部分まで好きになれるとは限らない。

つまり、自己肯定感が扱っている「自分」と、「自分を好きになる」というときの「自分」は、少し違うのではないか。

自己肯定感は、

「自分には価値がある」

という感覚なのかもしれない。

一方で、自分を好きになるということは、

「価値があるかどうかとは別に、この自分と一緒に生きていきたい」

と思えることなのではないか。

だから難しい。

「自分を好きになる」ということの難しさは、何か特別な能力を身につけなければならないという意味ではない。

むしろ、自分について知れば知るほど、嫌なところも見えてくるからだ。

他人なら許せる欠点を、自分には許せない。

他人の失敗には「そんなこともある」と言えるのに、自分の失敗には「だから自分は駄目なんだ」と言ってしまう。

それでも、自分と一生付き合っていかなければならない。

だから僕は、自己肯定感と「自分を好きになること」の二つは、幸福を考えるうえでかなり重要なのだと思う。

自己肯定感は、自分が転んだときに立ち上がるための床。

自分を好きになることは、立ち上がったあとに、自分自身を連れて歩いていくための感覚。

どちらか一方だけでは、少し心許ない。

そして、人間はときどき、自分が世界の敗者になったように感じる。

宇宙規模で考えれば、自分は何者でもない。

世界には、自分より美しい人も、頭のいい人も、金を持っている人も、才能のある人も、愛されている人も、いくらでもいる。

比較を始めれば、いつだって負けられる。

文明が発達するということは、同時に「自分より優れた誰か」を発見する能力が発達することでもある。

昔なら一生出会わなかったような人間の成功を、僕たちはスマートフォンを開くだけで毎日見ることができる。

自分の半径数十メートルだけを見ていれば「まあ、自分も悪くない」と思えた人間が、世界中の人間と比較できるようになった。

だから、自己肯定感が壊れることがある。

だからこそ、這い上がる力が必要になる。

負けたら終わりなのではなく、

「では、ここから何をしようか」

と考えられること。

自分の望んでいることと、実際に成し遂げたことの距離を、少しずつ縮めていくこと。

その過程で、自分を肯定できる瞬間が増えていく。

けれど、本当はそれすら必要ないのかもしれない。

自己肯定感を高めるための活動。

自分を好きになるための習慣。

幸福になるための方法。

そんなものを一つずつ探し回らなければならないこと自体が、少し不思議なのだ。

夜景を想像してみる。

高層ビルの一室で働く人間は、自分の目の前のパソコンを見ている。

道路を走る車の運転手は、信号を見ている。

コンビニで働く人は、レジを見ている。

電車に乗っている人は、スマートフォンを見ている。

誰も、自分たちが作っている夜景そのものを見ていない。

街を美しくしている本人たちは、その美しさに気づかない。

人生も、案外そういうものなのではないか。

今日誰かに「ありがとう」と言われたこと。

誰かの役に立てたこと。

昨日より少しだけできるようになったこと。

好きな音楽を聴いたこと。

くだらないことで笑ったこと。

何も起こらなかった一日を無事に終えたこと。

そういうものの中に、すでに自分の人生を肯定する材料は散らばっている。

それなのに僕たちは、それらを「大したことではない」と処理してしまう。

もっと大きな成功。

もっと高い収入。

もっと多くの人からの評価。

もっと美しい恋愛。

もっと特別な人生。

そういうものを手に入れてから、自分を認めようとする。

でも、もしかすると順番が逆なのだ。

大きな幸福を手に入れたから、小さな幸福に気づけるのではない。

小さな幸福に気づけるから、自分の人生を大切にできる。

「自分を好きになる」というのは、自分のすべてを無条件に褒めることではないのかもしれない。

嫌いなところがあってもいい。

負ける日があってもいい。

自信がなくてもいい。

それでも、自分の人生を「まあ、悪くない」と眺められること。

自分という人間を、他人の評価だけで決めないこと。

そして、自分が知らないところで自分が作っている小さな夜景に、たまには気づいてあげること。

自己肯定感とは、自分に「価値がある」と言い聞かせることなのかもしれない。

自分を好きになるとは、その価値とは関係なく、

「この人生を、もう少し見ていたい」

と思えることなのかもしれない。