運について話そう。

世の中には奇妙な人間がいる。

なぜか何度も運がいい人間だ。

いい大学に受かる。

いい会社に入る。

いい人と出会う。

いい機会を掴む。

一度だけなら偶然で説明できる。

だが二度、三度、四度と続くと話が変わる。

それは本当に運なのだろうか。

古代ローマの哲学者セネカはこう言った。

「幸運とは、準備が機会と出会うことである」

ありふれた言葉だ。

だが長く考えるほど恐ろしく正確だと思う。

なぜならチャンスそのものは、案外平等だからである。

不平等なのは、

それをチャンスだと認識できる人間の方だ。

私は最近、

運には二種類しか存在しないのではないかと思うようになった。

当たりくじを増やすこと。

外れくじを減らすこと。

たったそれだけである。

受験は前者の典型だ。

勉強を続けると不思議な現象が起きる。

賢くなるのではない。

無知になる。

正確には、

自分の無知を発見してしまう。

数学。

英語。

国語。

理科。

社会。

その奥にはさらに無数の分野が広がっている。

勉強するたびに、

知らないことが見つかる。

できない問題が増える。

だから本当に優秀な受験生ほど不安そうな顔をしている。

外れくじの総量を知っているからだ。

東大に受かった友人が言っていた。

「合格は偶然だけど、不合格は必然だ」

名言だと思う。

本番で確率漸化式が出るかもしれない。

整数問題が出るかもしれない。

自分の得意分野が出るかもしれない。

それは運である。

だが落ちたときは違う。

必ず理由が残る。

あの単元ができなかった。

あの問題を捨てた。

あの知識が抜けていた。

不合格は説明できる。

合格だけが説明しきれない。

ここで人は言う。

「同じ授業を受けているのに差がつく」

「同じ先生に習っているのに気づける人と気づけない人がいる」

だから才能だ、と。

センスだ、と。

私はそう思わない。

なぜなら、

彼らの努力量が同じだったという証拠を誰も持っていないからだ。

同じ教室にいた。

同じ授業を受けた。

同じ参考書を使った。

それは事実かもしれない。

だが、

授業後に何を考えたかは違う。

帰り道で何を反芻したかは違う。

風呂の中で何を思い出したかは違う。

寝る前に何を悔やんだかは違う。

努力とは机に向かった時間ではない。

脳が対象に占領された総時間である。

人は才能を神秘化したがる。

だが実際には、

観測できない微差を見落としているだけかもしれない。

もう一つの方法は、

外れくじを減らすことである。

こちらは人生そのものだ。

人間は環境に支配されている。

意思で生きていると思っているが、

実際には空気で生きている。

周囲が本を読むなら本を読む。

周囲が勉強するなら勉強する。

周囲が挑戦するなら挑戦する。

逆も同じだ。

だから環境を変えるという行為は、

成功へ近づくことではない。

失敗の理由を消していく作業である。

サボる理由を消す。

誘惑を消す。

逃げ道を消す。

言い訳を消す。

人生とは、

外れくじのデバッグ作業なのかもしれない。

だがここで、

現代人が最も愛する言葉が現れる。

親ガチャである。

私は親ガチャを否定しない。

むしろ存在すると思う。

親が子供を産むという行為は、

人生を始めることではない。

人生のグラフを描くことだ。

生まれた瞬間、

私たちは一本の関数として世界へ放り込まれる。

医者の家系。

スポーツ選手の家系。

裕福な家庭。

貧しい家庭。

身長。

顔。

知能。

病気への耐性。

グラフの初期条件は違う。

これは残酷なほど事実である。

しかし、

多くの人はそこで思考を止めてしまう。

親ガチャが決めるのは、

グラフそのものだ。

現在地ではない。

私たちが毎日行っている

「当たりくじを増やす」

「外れくじを減らす」

という行為は、

そのグラフの上を移動するための変数なのである。

不遇だと感じている人のグラフの最大値が必ず

恵まれている人のグラフの最小値より小さいとは言えない。

むしろそのようなことが起きるほうが稀だろう。

結局、

運とは神秘ではない。

親ガチャでもない。

努力でもない。

運とは、

自分に与えられたグラフの中で、

偶然を掴める位置に立ち続ける技術である。

勉強する。

本を読む。

人に会う。

環境を整える。

毎日続ける。

驚くほど地味だ。

だが運というものは、

いつだってその地味な場所にしか降ってこない。

人々は空から奇跡が落ちてくると思っている。

違う。

奇跡とは、

長い時間をかけて準備された偶然の別名なのである。