誕生日から10ヶ月が経った頃、僕はようやく祝われた。
祝われたというより、忘れられていたものが思い出された、という方が正しい。
友人から差し出されたのは、見たこともない洒落たマグカップだった。
嬉しかった、ということにしておくには十分すぎるほどだった。
しかし人は贈り物を受け取った瞬間、次の義務を思い出す生き物らしい。
感謝と同時に、返礼の請求書が頭をよぎる。
例に漏れず、何か返さねばならぬと思い、僕はポケットの中の板を取り出した。
スマートフォン。
検索窓に商品名を打ち込む。
数秒後、答えは出た。
3000円。
その瞬間である。
先ほどまで友人の優しさに満たされていたはずのマグカップは、「3000円のマグカップ」へと静かに変質した。
温度は消え、重さだけが残った。
僕は3500円という、どこにも根拠のない数字を選び、お返しを用意した。
3000円を受け取り、3500円を返す。
差額の500円は、友情の消費税といったところだろう。
だが後になって思う。
恋愛も、これとよく似ている。
昔、好きだった人がいた。
彼女が僕をどう思っているのか分からなかった。
だから楽しかった。
LINEの返信が少し遅いだけで考え込んだ。
句読点の位置に意味を見出した。
偶然目が合っただけで、一日中機嫌が良かった。
今思えば滑稽だ。
しかし、その滑稽さこそが恋だったのだと思う。
人は分からないものを想像する。
想像するから膨らむ。
膨らむから愛着になる。
ところが現代は、分からないことが少なすぎる。
SNSを開けば休日が見える。
誰と遊んだかも見える。
何が好きかも分かる。
過去の恋人の影すら辿れてしまう。
かつて恋は推理小説だった。
今は説明書付きの家電に近い。
便利になった。
だが少しだけつまらなくなった。
マグカップも同じだった。
値段を知らなければ、友人が店で迷う姿を想像できたかもしれない。
どんな棚の前で立ち止まったのか。
なぜその色を選んだのか。
どんな顔でレジに持っていったのか。
だが僕は3000円という答えを手に入れてしまった。
答えは想像を殺す。
便利さとは、時々そういうものだ。
スマートフォンが普及する以前、世界はカードゲームのようだった。
相手の手札は見えない。
だから人は会話した。
探った。
勘違いした。
失敗した。
そして許した。
今は違う。
全員が同じ最強デッキを持っている。
検索すれば答えが出る。
調べれば相場が分かる。
知らないことが、少し恥ずかしい時代になった。
だが僕は時々思う。
人類は知識を増やしすぎたのではないかと。
知れば知るほど、人は幸せになると思っていた。
実際は逆かもしれない。
旅先で宿の値段を調べる。
平日料金を見つける。
得した情報ではない。
損した気分だけが残る。
選択肢が増えるほど、選ばなかった未来が牙を剥く。
知識は不安を減らす。
その代わり、後悔を増やす。
だからもう少しだけ、分からないままでいたい。
DAZNの値段を聞かれたとき、
「調べれば分かるよ」
とは言いたくない。
「クソつまらなくなったのに4,200円に値上がりしたよ。昔は1,890円だったんだけどね」
そう返したい。
情報だけではなく、感情も添えて渡したい。
それが人間だと思うからだ。
恋もそうだった。
相手の気持ちなんて最後まで分からなかった。
結局、告白もしなかった。
けれど不思議なことに、その曖昧さだけは今も覚えている。
もしあの頃の恋に検索窓があったなら、
僕はもっと楽だっただろう。
そしてきっと、もっとつまらなかった。
人は答えを欲しがる。
けれど本当に愛しているのは、答えそのものではない。
答えに辿り着くまでの想像なのだ。
都会の鼠が失ったものも、たぶんそれだ。
便利さ。
速さ。
正確さ。
その代わりに、遠回りする楽しみを置いてきてしまった。
だから最近は思う。
マグカップの値段なんて、知らない方が良かったのかもしれない。
そして恋もまた、
少しだけ分からない方が、美しいのかもしれない。