戦争という「無文脈」 ―クリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』を妄想力で読み解く②― | 天野という窓

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今回は「ノーラン監督作品を妄想力で読み解く!」シリーズ、各論編の第3回として、

2017年公開の『ダンケルク』について、残りを書きたいと思います。

 

クリストファー・ノーラン監督による

戦争という「時空間」を創りあげるうえでの方法論(だと思う)3つのアプローチ、

 

①戦争という「生理」を描く

②戦争という「体感時間」を描く

③戦争という「無文脈さ」を描く

 

の②③について。

 

まず②ですが、実は消音で鑑賞するとよく分かります。

海岸(陸)と海、空で、流れている「時間」が全く違うということに。

 

特に海岸のシーンはかなりショッキングでした。

もはや「諦念」とでも言うような、重く沈殿した時間が流れている(ように感じる)んですよね。

そしてそれは、その場の兵士たちの「主観」的な時間感覚の反映なのではないか。

 

ドイツ軍に包囲されて、銃弾飛び交う市街を死にもの狂いで抜けると、

海岸には助けを待つ長蛇の列。しかも船がくる気配は一切ない。無防備な空からは、味方ではなく敵のメッサーシュミットが爆弾を搭載して飛んでくる。

「ああ、ここが俺の死に場所か。。」

 

恐怖と、ほとんど諦めの境地での、停滞した時間感覚。

そういう、客観ではなく「主観」的な時間を感じるんですね。

 

最後に③です。

これが一番、象徴的かもしれません。

『ダンケルク』には、文脈的なものをほとんど感じないんですよね。

ここで言う「文脈がない」とは、二つの意味です。

 

・登場人物の出自や心理、行動の動機など、「背景」を感じさせるものがほとんどない

・シーンの中で、小さな起承転結が積み上がっていく感じがほとんどない

 

結果として、人物が突然行動を起こして、突然何かが起こって、突然人が死ぬ。

と思ったら、突然何かが解決している。

 

というように、因果関係というか、映画全体の流れをほとんど感じない映画になっているように思うのです。

 

『ダンケルク』、上映時間は約100分と(ノーラン監督作品にしては)短めの作品なのですが、観ている間は長いのなんの。

「いつ終わるんだろう」と苦痛でしょうがないんですよね。本当に。

何でだろうと考えたときに、それは文脈のなさ、それ故「次に何が起こって、どう解決するのか予測がつかない」という、つまりは先の読めなさにあるのではないかと。

 

では、なぜそんな映画にしたのか。

実は、戦争という無文脈、そして、それ故の苦痛を追体験させるという意図があったのではないかと思ったんですよね。

(なんにでも意図を見出そうとしてしまう性分)

 

もちろん、戦争に「文脈」がない訳がありません。

戦争には理由があります。歴史的、文化的、思想的、政治経済的、あるいは宗教的…。人間的なコンテクストをいくらでも見出せるはず。

個々の戦闘についても、戦略的意図、地理的要因、気象、兵力や兵器のスペックから導かれる戦術etc. 

今後起こりうること、先を読むための情報はいくらでもあるはずです。

 

客観的に見れば、戦争は「文脈」にあふれている。

では主観的に見たとき、特に「一兵士」の目線で見たときに、戦争は本当に「文脈」的なものに見えているのか?

 

知らない土地、顔も知らない敵兵に追い詰められた、見ず知らずの、名前はおろか国籍すら不明な味方たち。

見えない戦局。限られた情報。辛うじて見聞きする物事も、果たして正しいのか誤りなのか、判別する手がかりもない。

極度の限定合理性。

突然弾が飛んできて、突然船が爆発して、突然人が死ぬ。

この先何が起こるのか、次の瞬間、果たして自分が生きているのか、まるで見当もつかない。

 

主観的な戦争とは限りなく無文脈的なものであり、であるからこそ、いつ終わるとも知れない恐怖と苦痛、諦念に苛まれ続けるものだ。

 

そういう殺伐としたものを体感させたかったのではないかと。

キャラクターではなく、映画という時空間そのものに意識を移入させることによって。

 

ある意味では、観念的な戦争体験と言えるかもしれません。

それはアドレナリンが噴き出す類のものではない。

終わりの見えない恐怖と苦痛、諦念。そういう地獄を、撤退戦という時空間を観念的に創りあげることで体験させる。

…そんな感じでしょうか。

 

賛否両論あるとは思います。

独自の戦争表現という見方もあれば、血の通わない空論という考え方もあると思います。

 

…血と言えば、『ダンケルク』は本当に血が流れないんですよね(ちょっとだけ流れますけど)。

血が噴き出し、体が粉微塵に吹き飛び、手足が千切れる。

鋼鉄と肉の衝突という物理現象の当然の帰結として、そういうことが当たり前に起こる。

そういったリアリズムの塊のような戦争において、血がほとんど出ない。

それはどうなんだと。

 

あとは気の抜けた空中戦だったり、異様に小規模な編隊だったり、

爆撃機がウ○コみたいに戦艦に爆弾を落として、当の戦艦は、接近する爆撃機に対空射撃もせずにあっけなく沈むという謎の展開だったり、意味不明な描写は山ほどある気がします。

 

最後なんて、ガス欠でプロペラが止まったスピットファイアがグライダーみたいに滑空して

その状態でメッサーシュミットを撃ち落とし、なおも海岸沿いを滑空し続けるという「開いた口がふさがらない」系の描写で終わりますからね。理想主義にもほどがあるという。

 

なので、『ダンケルク』を戦争映画として観るべきなのかはよく分かりません。

クリストファー・ノーラン監督という創造主が、戦争という「時空間」を創りあげた。そういう映画なのではないでしょうか。