戦争という「生理」 ―クリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』を妄想力で読み解く①― | 天野という窓

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今回は「ノーラン監督作品を妄想力で読み解く!」シリーズ、各論編の第2回として、

2017年公開の『ダンケルク』について書きたいと思います。

 

『ダンケルク』はタイトルの通り、

第二次世界大戦におけるダンケルクからの撤退、つまり「ダンケルクの戦い」でドイツ軍にコテンパンにされ、追い詰められた英仏軍による30万人規模の決死の撤退作戦を描いたものですが、この作品は一見して分かるように、いわゆる戦争映画とは纏う雰囲気がまるで違っています。

 

具体的には何がどう違うのか? それによって、この映画は何を描こうとしたのか?

そのあたりについて、妄想力を働かせつつ読み解いていこうと思います。

 

まず、この映画が戦争という「時空間」を描こうとしたものであることは明白だと思います。

陸(防波堤)の7日間、海の1日、そして空の1時間。時間軸の異なる3つの場所で展開されるストーリーが次第に接近していき、最後はダンケルクの浜辺で一つに溶け合っていく。

ものすごくノーラン監督らしい、時空間操作系の構成。

 

では、その戦争という「時空間」を、具体的にはどのような方法論で描いているのか?

更に言うと、それによって、戦争のどんな側面に迫っていこうとしたのか?

大まかに3つあるように思います。

 

①戦争という「生理」を描く

②戦争という「体感時間」を描く

③戦争という「無文脈さ」を描く

 

まず①ですが、

映画体験としてはこれが一番分かりやすいように思います。特に「音」ですね。

場面の緊迫感(心拍音)に同期するような音楽、腹底をえぐるような効果音、眩暈がする不快なストリングスに、吐き気を催すミキシング。

臨場感だけでない、生理的不快感を催す聴覚体験のオンパレード。

これらは総じて、戦争という不快、特に「生理的不快」を表現するための方法論の一つであるように思います。

 

映画の初っ端に、主人公の野○ソ(アウトドアスタイルの大きい方)シーンを、それも引っ張って入れてくるあたりも、

戦争という「生理的不快」を描こうという意思を感じますね。

人間も生物である以上、生理現象は避けられない。

しかし戦争は、そういう人間のありとあらゆる生理と無関係に進行する訳です。

しかも、飛び交う砲弾の音、炸裂音、迫りくる敵機のエンジン音、腐敗臭、死臭、汚物臭、火薬や人の焼ける匂い…

戦争は、発狂するような生理的苦痛に満ち溢れている。

 

そういうことを、観る側にあえて不快感を生じさせることで表現し、

もって戦争という「時空間」に意識を移入させようとしたのではないか。

 

…話が反れますが、

戦争の内実を聴覚的に表現せしめた(であろう)もので、個人的に強烈に印象に残っているのが、スティーブン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』です。

これは、ノルマンディー上陸作戦を描いたもので、冒頭で凄まじい戦闘(というより殺戮)が展開されるのですが、

その少し手前に、上陸地点に向かう揚陸艇にすし詰めにされた兵士たちを描いた場面があります。

 

震える手。

何とか手にした水筒が、ガタガタ音を立てる。

行きたくない。これ以上進みたくない。身体がそう訴える。

そんな生身の絶叫をねじ伏せるように、急激にピッチを上げる揚陸艇の冷たいエンジン音。

 

兵器という、鋼鉄の無慈悲な万力。

それに蹂躙される、柔らかい、あまりにも惰弱な人間の肉体。

そういう近代戦の残酷さを、ほんの数秒の、本当に些細な音の組み合わせで、心的に、ものすごく克明に表現している(ように感じた)んです。鳥肌が立ちましたね。

 

…まあ、それはそれとして、

そういう「生感」というか「肉感」はありませんが、『ダンケルク』ではノーラン監督なりの音の表現をもって、

戦争という「生理」に、観念的に迫ろうとしたのではないか。それが①です。

 

次に②ですが、

…ちょっと長くなりましたので、次回にまわします。。