クリストファー・ノーラン監督作品を、妄想力で読み解く(その①) | 「天野」という窓

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こんにちは。

最近ほとんどブログ更新できていませんでしたが、「天野」としてのアクティビティはもちろん継続していましたので、いい加減ここいらで更新しようと思います。

 

今回からは、クリストファー・ノーラン監督作品について。

実は、3月に公開された『オッペンハイマー』、日本で公開が決まるかなり前から、個人的に興味があったんです。

 

というのも、ロバート・オッペンハイマーを扱う以上、原爆というテーマは避けて通れない。

ただ、原爆を語るということは使った側・使われた側どちらかの視点に立つということであり、もう一方からの痛烈な批判は避けて通れそうにない。

かといって、両方に配慮したのでは中途半端な映画にならざるを得ない(気がする)。

どうやっても、何らかカドが立つ映画にしかならないのではないか…? と思ったんですね。

 

ところが、一足先にアメリカで鑑賞した友人(日本人)曰く、「いい映画だった」と。

 

果たしてどんな映画なんだろう?

どうやって、そのあたりの矛盾というかジレンマを解決しているんだろう?

と、興味津々だったんです。

 

そこで、まずはノーラン監督作品を一通り鑑賞して

「どんな監督なのか?」「どういう動機を持った監督なのか?」

このあたりを自分なりに掴んだうえで『オッペンハイマー』を観ようと。

 

とりあえず、『フォロイング』から『テネット』までのノーラン長編作品を、

アマゾンプライムとツタヤを駆使して観まくっていたんですね。

 

なので、その成果を書き残しておこうという訳です。

今回は総論としての個人的ノーラン像に触れて、次回以降、ノーラン監督のフィルモグラフィを『テネット』から順番に遡っていこうと思います。

発端である『オッペンハイマー』は、最後に取っておくという形。

 

さて、前置きが長くなりましたが、

作品群全体を通して思うのは、ノーラン作品とは一種の「思考実験」に近いものだということです。

それは、あのバットマン・トリロジーにしても同様。

 

物理学とか量子力学とか、科学的なものから着想を得ていることが多いように思いますが、

そういった着想に、論理的に導出される構造を与えて、その「箱」の中に登場人物を投げ込んで、どう振る舞うのかをストーリーとして落とし込む。それを、映像的・演出的動機から映画にしていく。

言うなれば、映画という「時空間」を創りあげる。そういう感じでしょうか。

 

つまり、ノーラン作品の主軸というのは構造であり、人ではないということ。

 

実は『オッペンハイマー』についても同様で、

タイトルからするとロバート・オッペンハイマーという、「原爆の父」と呼ばれる科学者の内面に迫るような作品を想起しますが、やはり構造的な作品というか。社会だったり、人だったりというもの性質を、オッペンハイマーという「被写体」を通じて描いたもののように思います。

 

更に言うと、戦争映画でもないです。

内面の葛藤や、戦争というドラマや暴力性を描きたかったわけではなく、人や、人の集合体である組織、社会、あるいは国家としてのアメリカ。そういうものの性質を、理論物理学者であるオッペンハイマーの人生を辿ることで描いてみせた(理論物理学者かつああいう性格のオッペンハイマーだからこそ描けるものがあった)。そういう作品だと読み取りました。

(詳しくはラスト回に譲ります)

 

いやあ、でもクリストファー・ノーラン監督作品、

個人的に収穫が多かったと言いますか、「なるほどな―」と唸るものがたくさんありました。

 

次回以降、まずは『テネット』から、書き残していこうと思います。