エイリアンと功罪 -映画『エイリアン2』を妄想力で読み解く- | 天野という窓

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こんばんは。

前回、前々回に引き続き、ジェームズ・キャメロン監督「エイリアン2」について、妄想力を働かせてみたいと思います。

今回はその功罪について、リドリー・スコット監督「エイリアン」との比較点

 

①乗組員は何者なのか

②コールドスリープからの目覚め方

③アンドロイドをどんな存在として描いているか

④どのようにエイリアンを倒しているか

 

の④に着目しながら考えます。

 

まず「エイリアン」において、エイリアンは打倒不可能な存在でした。

文字通り「パーフェクト・オーガニズム」と称すべき存在。

 

クルーは一匹のエイリアンにことごとく惨殺され、最後は部屋に入ったスズメバチをへっぴり腰で外に追い払うがごとく、やっとこさ宇宙空間に放り出して終了という感じ。

 

それが、「エイリアン2」においては統一された意志(海兵隊的ドクトリン)と統率、身体の延長としての銃器や重機という、「広義の人間」とでも言うべき要素を投入することで、エイリアンをバッタバッタ倒していくわけです。

 

人間の定義というか着眼点を変えることで、人間はエイリアンに淘汰される存在から、淘汰する存在へと変貌を遂げた。

これが、功罪の功の部分。

 

では罪は何かというと、

「パーフェクト・オーガニズム」であったエイリアンがバッタバッタ倒せる存在に格下げされたことによる、映画的パースペクティブの喪失です。

 

そもそも、「エイリアン」の根底的な面白さは人間至上主義的価値観の逆転にありました(少なくとも私の場合は)。

人間を生物的に淘汰される存在として描くことで、人間論や生物論、機械論的見地から人間存在を見つめなおす契機が与えられ、実際、映画の表現としてもそういう匂いが漂っている(気がする)。これが映画的パースペクティブであり、そのきっかけが「パーフェクト・オーガニズム」たるエイリアンだったわけです。

 

一方、「エイリアン2」ではエイリアンを大量殺戮することで、ある意味では人間至上主義的価値観に回帰してしまった。

同時に、「エイリアン>人間」の関係性によって成り立っていた映画的パースペクティブも喪失してしまったわけです。

 

厳密には、「エイリアン2」に関しては「エイリアン」とカウンターパンチとして観ることで、その限りにおいてのパースペクティブを見出すことは十分に可能なのですが(だからこそ、こうしてクドクドと2作の比較をしているわけではあるのですが)。

恐らく「2」の価値観から出発しているであろう「エイリアン3」「エイリアン4」については、少なくとも「エイリアン」にあるようなパースペクティブは感じられなくなっています。

 

言ってしまえば、ただのSFアクション映画になってしまった。

(とはいえ、「エイリアン3」「エイリアン4」はそれぞれなかなかに興味深い主張を見出すことが可能で、それは機会があれば書きたいなと思いますが)

 

極めつけは「エイリアンVSプレデター」などというトンデモ映画で、

「パーフェクト・オーガニズム」であったはずのエイリアンは、単なるプレデターの成人儀礼の道具にまで転落します。

 

もはや咬ませ犬ですね。

比例して、映画としてもただのトンデモアクションになってしまうという。

(まあ、これについてははるか昔にTVで観た印象に則っているので、今観直したら違う見方ができるのかもしれませんが、、)

 

これを、罪と言わずして何というのか、、

 

ただ、こうして考えると、改めて人間至上主義的価値観の可塑性というか矯正力というか、

そういった価値基準が人間にとっていかにファンダメンタルなものであるかが再認識されて面白いですね。

 

人間存在を陥れることそれ自体がでホラーたり得、

人間主義的価値観の回復が、興行的に支持される(=一般に受け入れられる)ということですから。

 

こういった洞察を得られたことは、功罪の功と言いたいですね。