こんばんは、天野隆征です。
今回も、紅の豚を久々に観て感じたことについて、
吉田兼好の精神でそこはかとなく書きつくろうと思います。
今回は、名脇役(?)フェラーリンについて。
フェラーリン、イタリア空軍に所属する身ながらことあるごとにポルコの世話を焼き、秘密警察の動向を伝えたり、空軍の網を抜ける空路を教えたり、決闘現場にイタリア空軍が向かっていることをジーナに密告したりと、「よく分かんないけど何だかいい奴」的ポジションでちょいちょい登場します。
最初は、フェラーリンってよく分からなかったんですよね。
彼はなぜ、こうもポルコに協力的なのか。
ただのお節介さんなのか、はたまたストーリーの都合で捻出されたご都合的キャラクターなのか。
まあいろいろ解釈は可能だと思いますが、
妄想たくましくフェラーリンに感情移入していくと、実はこのキャラクター、相当魅力的なのではないかと思い始めたのです。
順を追って説明しますと、
まずフェラーリンは、ポルコ同様に国家を守るとか、民族に奉仕するとかそんな大仰な思想では空を飛んでいません。
「冒険飛行家の時代は終わったんだ!国家とか民族とか、そういうくだらないスポンサーを背負って飛ぶしかないんだよ」
とはフェラーリンのセリフですが、こういったセリフからも彼のスタンスはよく分かります。
本来であれば、ポルコ同様「飛ぶこと」と「精神的自由」を両取りしたい人物なのでしょう。
しかしフェラーリンは、少なくとも理性の上では「片方を得て、片方を犠牲にする」ことのバランスが取れている。であるからこそ空軍に残っている、という人物なのではないか。
どうしてバランスできているのかは分かりません。
妻子がいるのかもしれませんし、この先空を飛びたいなら、どの道空軍しかないと割り切れているのかもしれません。
しかし、理性で割り切れているものも、感情となると別物です。
意識的、無意識的に、そのはけ口を求めてしまう。
その結果として、フェラーリンは豚になって生き方を叶えるポルコに手を貸すことで、
自らの感情、というか魂を救済しているのではないか。
言い方を変えれば、
フェラーリンは一種の代償行為として、ポルコを手助けしているのではないか。
そう解釈すると、フェラーリンというのは非常に魅力的な人物です。
フェラーリンの立場で、十二分にドラマを描けるくらい。
というより、現代において共感を得るのはポルコよりむしろフェラーリンではないでしょうか。
社会では、誰しもフェラーリンにならざるを得ない。「感情」ではなく、理性の上での「勘定」を優先しなければならない。
そうでないと社会は回らない。
そんな義務感めいたものを抱えながら、心のどこかでは、ポルコの生き方に賛同してしまう。
だからこそ、フェラーリンはポルコを助ける。
…うん。なんて魅力あるキャラクターなんだ。
思うに、紅の豚というのは魂の救済映画なんですよね。
観客(特に大人の)は多かれ少なかれフェラーリンを持っていて、だからこそポルコの奔放な生き方に観入ってしまう。
国家や民族ではない。
社会とか組織とか、そういうフェラーリンと同じくらいの高さの葛藤を持つ人たちが、一種の代償行為として観てしまう映画。
大人になって紅の豚を観たくなる動機というのは、このあたりにあるのではないか。
…そう考えると、個人的にかなりしっくりくるんですよね。
更に考えるなら、
紅の豚徒然草の第1回でちょろっと書いた、「ポルコとは豚の面をかぶった宮崎監督なのでは」という思い付きがかなり的を射ているような気もしてきます。
宮崎駿監督も、実は自らの一種の救済映画としてこの映画を製作したのではないか。
本来はフェラーリンである宮崎「監督」が、豚という仮面をかぶることで奔放さを手に入れた。
そうだとすると、印象として「作りたいものを作りました」の作品になるのは、当然なんですよね。
あー、なんだか勝手にしっくり来てしまいました。
…さて、妄想が膨らみすぎてしまうので、、
このくらいにしようと思います。