千と千尋と凡庸 | 天野という窓

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渋谷で働くサラリーマンのもう一つの顔、小説家:天野の日常を綴るブログです

こんばんは、天野隆征です。

 

もはやジブリ映画の感想ブログっぽくなってきていますが、、

今回から、TSUTAYAへひとっ走りして借りてきた「千と千尋の神隠し」について、つらつらと書き留めたいと思います。

 

ただこの作品、ストーリーという意味では結構ひどい気がしています。。

ということで、あまり深入りはせず気づいた点をぽろぽろ書き記すにとどめたいと思います。

 

今回は、主人公のキャラクター設定について。

お気づきの方も多いと思いますが、宮崎駿監督のジブリ作品でここまで主人公が「普通」なものって、ほとんどないんですよね。

 

大抵は王族の血をひいていて、

そうでなくとも魔女だったり、魔法使いだったり、魔法をかけられちゃった人だったりエトセトラ…で、いわゆる「普通の人間」が主人公であるケースはかなりレアです。

(「耳をすませば」は監督が近藤善文さんですので別物と考えています)

 

しかも、勤勉であるわけでも徳があるわけもなく、

とにかくどこまでもフツー。

 

眠そうな目をした、ブウたれ気味の、「現実に無数にいそうな、普通の女の子」という感じです。

トトロのサツキちゃんなんかは、普通でありつつ「あんな女の子いないだろうなー」という生真面目さがありましたが、そういうものも皆無。

(まあ、湯屋で働き始めた瞬間、いつものジブリキャラに謎にキャラ変していくのですが。。)

 

そして、千尋がそんな感じなら、その両親もものすごく普通。

 

お父さんはあれでゴルフバッグでも背負っていれば、カントリークラブに必ず一人や二人いるオジサンという感じですし、あの短足気味でチノパンをダボっと履くお母さん、すさまじい既視感です。ちょっと冷たいですけど。

 

この普通さは、宮崎駿監督の映画としてはかなり特殊な部類に入ると思います。

普通の女の子の成長を描く物語。「魔女の宅急便」に似ているところもありますが、キキ以上に普通の、日本の女の子。

 

それが、言うなれば目黒雅叙園をケバくしたような、「似非日本文化に西洋的なものを混ぜ込んでみました」というコテコテの彼岸の世界に迷い込み、葛藤し成長していくという。

 

…ただ「千と千尋」、

千尋の成長物語と位置付けるにはあまりに雑というか、肝心の千尋(千)の成長過程をほとんど描けていないですよね。。

(では成長物語以外のテーマがあるのかというと、、そこまで強い何かを今のところ見いだせていないので恐らく成長物語なんだろうと)

 

思うに、本当ははるかに長い尺になるはずのストーリーだったものを、途中から無理やり今の時間に圧縮したのではないかと邪推してしまいます。

千尋が湯屋で働くまでが異様に長く、その後加速度的に展開が早まって、ラストなんてもはや「?」しかつかないですよね。本当に描くべきところが、ことごとく端折られている感じです。

(これは、子供のころに初めて映画館で観たときからの感想ですが、今観てもその点が解決しないので恐らく意図的というよりはやむなくなのかなと。。)

 

久石譲さんの音楽がなければ、もはや物語として成立していたのかすら怪しいのではと。

 

では、そんな危うい「千と千尋」がなぜ、私も含め多くの方を魅了するのか。

もはや気づきではなく、「そう思いました」の感想の部類に入りますが、次回書き留めたいと思います。