こんばんは、天野隆征です。
今回も、紅の豚について
徒然なるままに~、の精神で書き留めようと思います。
紅の豚は、ご存じの通り3つの疑問が未解決のまま、観る人の想像にゆだねる形で終わります。
①ポルコはなぜ豚になったのか?
②ポルコは人間に戻ったのか?
→最後、フィオのキスの後でカーチスが「お前、その顔!」と言う場面があり、つまり人間に戻った描写と取れますが、それでよいのか
③ジーナの賭けは実ったのか?
未解決に終わるというのはインスピレーションが湧いて良いのですが、
とはいえモヤモヤして気持ちが悪い。
そこで、今回は③つの疑問について、妄想たくましく書き連ねていきます。
まず、ポルコはなぜ豚になってしまったのか。
端的に言えば、人間に絶望してしまったのではないか?と妄想します。
人間であるということは、「社会」に奉仕すること。
人間であるには、政治とか社会とか国家とか民族とか企業とか組織とか、そういう自分を含むより大きな概念(ここでいう「社会」)に組み込まれることを所与としなければなりません。
そのために、個としての自分が多かれ少なかれ損なわれることも、所与としなければならない。
「社会」的動物としての、人間の宿命とでも言うべきでしょうか。
しかしポルコはそれを良しとしなかった。
具体的には、「空を自在に飛ぶこと」と「精神的自由」の両取りが叶えられない人間というあり方に、ある種絶望してしまったのではないかと。
それが叶った時代もありました。
ポルコが(恐らく)十代のころ。飛行艇の黎明期で、ジーナや仲間たちと一緒に自由に空を飛べた時代。
作中のセリフを引用するなら、「冒険飛行家」の時代です。
しかし飛行艇が権力と結びついた瞬間、
もはや「国家や民族といったスポンサー」を背負う以外、自在に空を飛ぶことは許されなくなった。
(まあ遊覧船や民間航空会社のパイロットになるというのもあるのでしょうが、それは既定のルートを規則通り飛ぶだけであって「自在に飛ぶ」のとは違うと、そう思ったんだろうということにします)
つまりは軍に所属するということであり、ポルコは空軍のパイロットとして戦う道を選んだ。
ポルコはもともと、国を守るとか民族を背負うとか、そんな大仰な思想は持ち合わせていません。
ただ自在に飛行艇を操って空を飛びたいだけ。しかしそのためには精神的自由を捨て、戦争を闘わないといけない。
不本意の戦い。
しかし空を飛ぶには、精神的自由は切り捨てないといけない。
一つを得るには、一つを代償として支払わなければならない。
そうやって不本意に敵を殺し、不本意に仲間が殺され、自らも消耗して生命の危険にさらされる。
そして、あの今際の雲のシーン。三途の川のオマージュのような飛行機の雲に、撃墜された戦友が合流していく。
自分は死に損なって、精神的枷を背負いながら、それでもなお飛び続けなければならない。
そのあり方に、絶望してしまった。
そこで、豚になって人間の業から解放される道を選んだ。
「空を自在に飛ぶこと」と「精神的自由」の両取り。
本来願った生き方を、豚になることで叶えたのです。
では、フィオのキスでポルコは人間に戻ったのか?
個人的には戻ったのではないかと、これまた妄想します。
ポルコにとってフィオは希望であり、
その希望からキスという真心を受け取ることで、人間として生きる道に戻った。
ポルコのセリフを引用するなら、「人間も捨てたもんじゃない」と。
しかし、人間に戻るということは人間の業も、引き受けるということ。
「空を自在に飛ぶこと」と「精神的自由」の両取りは、不可能になるわけです。
そこで③の疑問、ジーナの賭けに繋がります。
ジーナの愛は実ったのか?
きっと実ったんだと思います。
ポルコは人間に戻って、そして「精神的自由」を捨てた。
国家でも民族でもない。ジーナの愛に捧げるために。
…なーんて。
いやーコッパズカシイ妄想ですねー。
作品の解釈というのは、得てして自分の精神が反映される鏡であります。
人は作品の余白に、自分自身の苦悩なり願望なりを映し出す。
…ということで、はい。
私、精神的に束縛されてます。
なぜなら、しがないサラリーマンですから。
(まあ、それを自分の意志として良しとしている訳ですが。そしてそれを体現してくれているのがフェラーリンという名脇役だと考えているのですが、次回はそのあたりについて話を展開したいと思います)