アシタカの所在 | 天野という窓

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渋谷で働くサラリーマンのもう一つの顔、小説家:天野の日常を綴るブログです

こんばんは、天野隆征です。

 

ジブリ映画の中でも屈指の感情移入難度を誇る主人公・アシタカ。

前回はその性格やスタンスから、その理由について感じるところを書き留めましたが、今回はより深刻な疑問について。

 

それは、アシタカのアイデンティティについて。

端的に言うと、アシタカは自分を「人間」だと思っているのかという点です。

(あるいは、アシタカを「人間」として描く意図があったのか否か)

 

当然、生物学上は人間であるのは間違いありません。

ここで考えたいのは、たたら場を代表とする里の人々を「人間」だとしたときに、「人間」と自分を同類だと認識しているのかということです。

 

なぜなら、前提に立ち返れば、アシタカは厳密には「人間」ではない訳です。

500年前に「人間」との戦いに敗れたエミシの民であり、その生活様式や価値観、自然との関わり方など、まるで違っている。

 

そのエミシの民であるアシタカが、とばっちりで呪いを貰ってしまい

「人間」と自然との対立関係に関わっていくという構造なので、アシタカが「人間」としてのアイデンティティを持っていなくてもおかしくはないのです。

 

というより、前回振れたような冷めた、あるいは見下したような視線と勘案すれば、

「人間」としてのアイデンティティを持っていない、と考えるのが自然な気すらしてきます。

 

…ただ、そう考えると、アシタカは到底感情移入できない人物になってしまいます。

 

例えば、モロに向かって「あの子を解き放て。あの子は人間だ」という場面があります。

あのセリフを、アシタカは「人間」としてのアイデンティティをもって言っているのか否か。つまり

 

「サンは(私と同じ)人間だ」という意味で言っているのか、

 それとも

「サンは人間だ(私とは違うけどね)」という意味で言っているのかで、この作品の見え方は相当変わってしまいます。

後者の場合は、感情移入という点で結構危ない作品になってしまう。

そういう、アシタカのスタンスによって意味の転換が起きる場面が、もののけ姫にはふんだんにあるんですよね。

 

以前の私は、不覚にも無条件に前者だと思っていた(感じていた)のですが、

こうして改めて考えていくと、…後者なのではないか。

 

実はもののけ姫、本当は「アシタカせっ記」というタイトルにしたかったのを

鈴木敏夫さんが半ば強引にもののけ姫にした、ということがまことしやかに言われています。

 

これ、事実なら(興行という点では)絶対正解だったと私は思います。

なぜなら、これを表題から「アシタカの物語」としたときには、もはや上記の疑問とは無縁ではいられなくなってしまうからです。

その疑問を少しでも持ってしまった瞬間、この作品は共感不能な物語になってしまう。

(「人間」でないエミシの男が、冷ややかな視点をもって「人間」と自然の対立に首を突っ込む物語なんて、一体誰が共感するんでしょう)

 

もちろん、サンの方が人物的に感情移入しやすいという表面的なメリットはあると思いますが、

より重要なのは、上述のような事態を回避するところにあったのではないかと。

 

表面上は、アシタカが「人間」として物語に参加する作品として見ることができる(モヤモヤはするにせよ)。

しかし内実は、アシタカは「人間」ではないのではないか。

 

もののけ姫、相当危ういです。

ジブリ作品は、よく考えると結構危ういバランスで成立しているものが少なくないと思っていますが(以前取り上げたラピュタもそうですが)、もののけ姫は考え方によっては、飛びぬけて危ういなと思いました。

(ただ、その危うさというのはもののけ姫を大衆映画というかエンターテインメントとして捉えた場合であって、その前提が無ければそういう作品だ、ということで存在意義がある気もします)

 

ただ、今回久しぶりにもののけ姫を観て、改めてこの作品の奥深さに気がつきました。

エボシ、主人公にならないかなあ。