こんばんは、天野隆征です。
今回はラスト、主人公であるアシタカのモヤモヤについて書き留めておきたいと思います。
(本当はまだまだ書きたいのですが、DVDの返却期限が近いので、、)
モヤモヤとは、アシタカの異様に冷めた視点について。
恐らくアシタカ、ジブリ作品中の主人公でも最も感情移入しずらい人物の一人だと思いますが、
その背景には、この「冷めた」視点が関係しているんじゃないかと考えています。
まず、もののけ姫の構造について整理します。
もののけ姫は(とばっちりにより)呪いを受けてしまったエミシの民アシタカが、たたら場を中心とする人間と森の対立関係を目の当たりにして、そこに首を突っ込みながら「曇りなき眼」で状況を見定めようとする、という話です。
対立関係の外側に属するアシタカの視点から、第三者的に状況を語っていくわけです。
ただし客観的に「俯瞰」してしまうと、人の、あるいは人々の物語にできない(叙事詩や戦記ものになってしまう)ので、アシタカにも適当に状況に関わらせる。
こういった構造ゆえに、ある程度冷めた性質を持ってしまうというのはあると思います。
しかしアシタカの「冷めた」感じというのは、これとは別のところに強く起因しているように思います。
その一つは、アシタカの性格そのものに由来するもの。
アシタカは「葛藤」しないんですよね。いくつか思い悩むような場面もあるにはありますが、その対象は自分の外側にあるのであって、自分自身について葛藤することはない。
その理由は、一つはアシタカが思想やヘゲモニーに染まっていないからだと思います。
アシタカは対立関係に足を踏み入れながらも、たたら場にも山犬にも、立場として加担することはない。
サンには恋心的何かで肩入れしたり、あるいは「放っておけない」という個人的感情から、たたら場やらなにやらに手を貸すことはありますが、それだけ。
立場的には中立と言ってよく、更に言うと「あー、人間ってどうしてこんなに不完全なんだろう、、」「この状況を、俺が打破するんだ!」などといった、中立的立場ゆえの葛藤や悩み、動機なども一切持たない。
つまり人間らしくない。
この性格的に冷めた感じは、やはりアシタカへの感情移入を阻害しているように思います。
しかもアシタカは、人間と森の対立関係においては「冷めた」というより、
それぞれを見下すような視点すら含んでいます。
象徴的なのは、
たたら場にサンが夜襲をかけて、最終的にエボシとの一騎打ちになったところをアシタカが仲裁に入るという場面。
二人の争いを目にして、アシタカはどうなったのか?
悲しんだのか、「あの姿は、自分自身に他ならない」などど人間の業について思い悩むのか。
そんなことしません。
怒った。
しかも「お前ら何やってんだ、バカ者が!」という具合に怒った。
二人を取り押さえた後に、「夜叉」について語る場面があります。
あのときも、決してアシタカは「自分にも夜叉はいる」なんてことは言わない。
あんなに憤怒に燃えた表情をしているのに。
(腕からニョロニョロが発現した時「身のうちに巣食う憎しみと恨みの姿」なんて言い方をしていて、以前は「自分にも夜叉はいる」発言だとも思ったのですが、その後の発言や、そもそものニョロニョロの経緯から考えると、ストーリー的には素直に「とばっちりで身に巣食ってしまった、お前らの憎しみと恨みの姿だ」と受け取るべきだろうなと考えています(人間が元来身のうちに巣食わせている恨みと憎しみって、こんな醜い姿なんです、と拡大解釈して受け取ることは可能ですが、ここではあくまで有り体に解釈します))
つまり自分を、二人の同類とは考えていない。
そして二人を仲裁する。というか「両者相打ち」にする。
仲裁というのは元来、自分を当事者よりも上の立場に置かないと成立しません。
しかも説得や和睦ではなく、両者に一撃お見舞いして力づくで相打ちにする。
見方によっては神の鉄槌です。
立場的腕力的強者であることを、あの、人間と森の対立関係の縮図である場面で見せつけてしまった。
これは、観る側として感情移入できないのは当然です。
観る側とはつまり、エボシであり人間なんですから。
(アシタカのメシア的凄みに震える、という意味での感情移入はあるかもしれませんが)
…そう考えていくと、実はアシタカのアイデンティティについて、ある深刻な疑問にぶつかります。
それは、…長くなるので次回にしましょう。