こんばんは、天野隆征です。
今回はもののけ姫の終わり方について、徒然なるままに書き留めるパート②です。
前回はパート①として、
現代社会をして解決を見ない、答えの出ないテーマをそのまま作品にしたもののけ姫が抱えてしまったジレンマ、
そして(多分)それゆえの、ラストの展開のモヤモヤ感について触れました。
しかしもののけ姫、あるセリフによって、
実はものすごくきれいに完結しているんです。
(正確を期すなら、私はものすごくきれいに完結していると思いました)
それは、最後のジコ坊の「バカには勝てん」の一言。
このセリフ、以前は「朝日でシシ神は死ぬんだから、首なんて返さなくたって良かったのに。あー損した」
という表面的な心理描写のみを志向しているのかと思ったのですが、全然そんなことはない。
めちゃめちゃ深いです。この一言(多分)。
どういうことかと言うと、
もののけ姫が内包するテーマというのは(これまでも触れてきたように)解決しない問題である。
そしてそれは、現代社会の問題そのものである。
では、そのことに直面した私たちは、どうすればいいのか?
人に生まれたことを悲観し絶望するのか、それでも前を向くのか?
前者を主張することもできます。
しかしそうはしなかった。
前回触れたような「当座の問題解決」
つまりはシシ神が暴走をやめて(死んじゃったけど)、たたら場が崩壊して、ある種喧嘩両成敗的なありかたで、爆発寸前の緊張状態はひとまず空気が抜かれる。
人と森の関係でいえば、双方かなりの痛手を負いながらも、ゼロから立ち上がろうとする。
ゼロリセットから、新しい関係やあり方を構築しようとしていく。
それ自体大変なことであり、しかも将来的には同じ問題が再浮上することが目に見えている。
人は森を切り崩さなければ生きていけず、森を殺すことなしに繁栄は得られない。
その、人の「業」とでも言うべき根本問題は、何も解決していないのですから。
同じところを、永劫ただぐるぐる回り続けるだけなのかもしれない。
それは分かっている。
それでも、アシタカ達は希望をもって生を得ようとするんですね(特にエボシはそう)。
ところが、主要人物はそれを無自覚的に体現してしまったので状況が見えにくいし、
何より物語として締まりがよくない。
そこでジコ坊の登場です。
端的に「バカには勝てん」と、アシタカ達を冷静に客観化してみせるこの一言。
(当然、この場合の「バカ」とはいい意味ですよ。長期的悲観的視野に立たず、あくまでも目の前の生を善く生きようという前向きな姿勢を、端的に「バカ」と言っている)
いやー、しびれました。
そうなんです、バカが一番なんです。
バカになって、ひとまず目の前の生を享受して、その積み上げの中で少しずつ、状況を変えていくしかないんです。
そういうあり方そのものに絶望することもできますが、絶望したって良いことなんて何もない。
だったら、バカになるしかない。
そういう、ある意味では生き方の本質みたいなことを、
ジコ坊はあの状況で一言、「バカには勝てん」と発言することで見事に示してみせた。
少なくとも私は、そう解釈しました。
何と素晴らしい終わり方でしょう!
(ちなみに、ジコ坊のキャラ設定がどうこうというよりも、あの状況でそれを言う蓋然性の高い人物にそれを言わせて、もって作品全体の主張を忍ばせるという手法的な話です)
これで、エンドロール。
米良さんの「アシタカせっ記」を聴いて、初夏の青空のような澄んだ気持ちで視聴を終える。
…これだったら、何の問題もないのです(少なくとも私は)。
問題は、さらなるモヤモヤの種は、
ジコ坊の後にやってくる「コダマ復活」のシーン。
あれが、作品としては文字通りのラストシーンなのですが、、
…あのシーンは一体何なんだろう…。
「なんだかみんないい感じに終わろうとしてるけど、問題は何も解決してないよ!ほら、コダマも復活して、将来の禍根が見事に投じられたね!」というニヒルな表現なのか(だとしたら相当サイコパスですが、、)
あるいはもっと表面的に、「自然が戻ってきたよ!良かったね、ハッピーエンド!」ということなのか。。
恐らく後者で、しかも多分に大人の事情で入れられたシーンなんじゃないかと、
ものすごく勝手に妄想してしまうのですが。。
…ともかく、ジコ坊のラストの一言。
あの終わらせ方にシビれました、というお話でした。