【その⑦】久々にラピュタを観て思ったこと | 天野という窓

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渋谷で働くサラリーマンのもう一つの顔、小説家:天野の日常を綴るブログです

こんばんは、天野隆征です。

 

その⑦ですか…。長い。

とはいえ、こういう気づきは一期一会なので、忘れる前に書き残しておかないと。

 

ということで、我ながらくどいなと思いつつ、まだ続きます。

何年かぶりにラピュタを観て気づいたこと。


さて、今回は(恐らく)ラピュタのサブテーマ的位置づけにあるであろう、

「働く」あるいは「社会で生きる」ということについて。

 

ラピュタは、

・子供(パズーとシータ)が、労働に組み込まれている

 →鉱山とタイガーモス号のシーン

・労働が、非常に快活に生き生きと描かれている

 →主にタイガーモス号のシーン

 

という二点が印象的で、

これは恐らく宮崎駿監督の労働観もとい、人生観がそのまま描かれているのではないかと思ったりします。

(前者は「子どもも働け!」ということではなく、子供のうちから働くことの何たるかを知るべき、と言うくらいの意味)

 

特に、タイガーモス号の労働のシーンは、久々に観て唸ってしまいました。

 

ドーラが「しっかり稼ぎな!」と叫んだ次の瞬間、乗組員が皆であくせく働きはじめるんですよね。

略奪を旨とする海賊が、協調して働くんです。しかも額に汗して。

 

「そりゃ、飛行船に乗ってるんだからそういうことも必要だろ」と言ってしまえばそれまでなのですが、

このシーンは、無くたって物語上何の支障もないんです。

 

それを、しっかり描く。

結構な尺を使って、快活に。

 

「額に汗して働く→モリモリ食べる→寝る」という、(社会で)生きるという行為そのものを、文字通り「生き生き」と描く。

何だか心が洗われるようです。

 

そして、それとはある意味対極にありつつ、これまた非常に味わい深いシーンが、

結構さかのぼって、パズーが要塞から家路につく場面。

 

夜道を逃げ帰るパズーが石に躓いて、ポケットから飛び出た金貨をひったくって

「こんな金!」とばかりに投げ捨てようとするものの、考え直して振り上げた拳を惨めそうに下ろして、トボトボ歩き出すというあのシーン。

 

あれは子供の頃は「結局貰うんかい!」などと、どちらかと言うと突っ込みシーンだったのですが、

大人になると、あれは何とも言えない味わいがあります。

 

ムスカから、いわば手切れ金として受け取った金貨。

パズーからすれば屈辱の、汚い金です。

 

それを、一瞬捨てようとするものの結局は受け取る。

「金貨は金貨。生きるために必要だ」と、矛を収める。

そういうことだと、私は受け取りました。

 

体面と実益を秤にかけて、後者を取った。

なぜなら、パズーも生きなければいけないから。

生きるためには、金が要る。

 

そういう、社会で生きるために、ある種大人にならないといけないという、葛藤や惨めさのようなものをきちんと描いているんですよね。「パズーは子供だから」と言って、妥協しない。

 

こういうところが、この作品がどの世代からも支持される所以なのかもしれませんね。