【その⑥】久々にラピュタを観て思ったこと | 天野という窓

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渋谷で働くサラリーマンのもう一つの顔、小説家:天野の日常を綴るブログです

こんばんは、天野隆征です。

 

まだまだ続きます。ラピュタを観て思ったこと。

というより、もはや妄想の域に入りつつありますが。。

 

今回は、前回書いた「地下描写」の件で、ちょっともやもやしたのでもう一度見返したら、

「あ、これは!!」と気がついた(妄想が膨らんだ?)ある点に関してです。

 

それは何かというと、ズバリ「地下で飛行石を語る」という、比較的前半にあるシーン。

 

あれ、前回何気なく「冥府表現かな、、」と書きましたが、断言します。

あれは完全に狙いすました、冥府、少なくとも現世ではない異世界の、意図的表現です。

 

何故そう思うのか、順を追って説明しますと、

まず前回触れたとおり、天上と地下を繋ぐということがそもそも、古典的に「冥府」の隠喩っぽいものを感じます。

ここまでは「あれ、そうなのかな」くらいの感じです。

 

ところが、少しシーンをさかのぼると、パズーとシータがポチャンと水が滴る水溜まりを超えるシーンが一瞬入るんです。

これ、昔から謎だったのですが、分かりました。

 

これはつまり、「三途の川」表現です。

あの瞬間、二人は現世を超えて、冥府、とは言わないまでも現世とは違う「異世界」に突入した。

それを暗示するシーンだったんじゃないかと。

 

更に、その先のシーンを見ると、二人の足元には「水辺」があります。

これがつまりは、三途の川の(現世から見て)対岸にいるという表現です。

 

そして決定的なのは、ポム爺さんの「小鬼がおる」という発言。

 

これで完全に繋がりました。

あのシーンは、かなり高い確率で、意図的に冥府、少なくとも「異世界」を描く動機があったはずです。

(ちなみに、鬼=異世界という話ではないです。鬼と冥府との関係が分かれば、多少このあたりのビビッっと感は理解していただけるはず。。)

これだけ物証がそろっているのですから、その可能性は限りなく高い。

 

では、その設定においてポム爺さんとは何者なのかというと、つまりは「渡し守」です。

現世とあの世を繋ぐ存在。つまり橋渡し役であり、ストーリーの進行役。

 

実は古今東西、渡し守というのは老人の姿で描かれることが多いのです。

振り返ると、ポム爺さんはその知恵をもって過去と現在(つまりは飛行石の正体)を橋渡しし、

更には道案内によって二人を冥府から現世へと送り返す、橋渡し的役割を担っている。

ストーリー展開的に、かなりのキープレイヤーです。

 

これはもう、確信犯ですね。

 

そして、仮にそういった前提(地下=冥府)に立つと、あの有名なシーン、

つまり「半分に分けた目玉焼きトーストを、さも美味しそうに食べる」場面が、かなり奥深いものだと感じられます。

 

なぜなら、冥府、つまりは死の世界で、生の象徴とでもいうべき「ご飯」を食べているのですから。

しかも美味しそうに、生き生きと。

 

このコントラストたるや。。

 

やはり、少なくとも自分の中では、

ラピュタというのはあらゆる意味での「相反する二要素の共存(しかも、かなり危ういバランスを伴って)」が、最大の魅力なのだと思うのですよね。

 

これは意図的なのか、結果的にそうなったのか、はたまた全く見当違いなのか。

あー、知りたい。。