こんばんは、天野隆征です。
まだまだ続きます。ラピュタを観て思ったこと。
というより、もはや妄想の域に入りつつありますが。。
今回は、前回書いた「地下描写」の件で、ちょっともやもやしたのでもう一度見返したら、
「あ、これは!!」と気がついた(妄想が膨らんだ?)ある点に関してです。
それは何かというと、ズバリ「地下で飛行石を語る」という、比較的前半にあるシーン。
あれ、前回何気なく「冥府表現かな、、」と書きましたが、断言します。
あれは完全に狙いすました、冥府、少なくとも現世ではない異世界の、意図的表現です。
何故そう思うのか、順を追って説明しますと、
まず前回触れたとおり、天上と地下を繋ぐということがそもそも、古典的に「冥府」の隠喩っぽいものを感じます。
ここまでは「あれ、そうなのかな」くらいの感じです。
ところが、少しシーンをさかのぼると、パズーとシータがポチャンと水が滴る水溜まりを超えるシーンが一瞬入るんです。
これ、昔から謎だったのですが、分かりました。
これはつまり、「三途の川」表現です。
あの瞬間、二人は現世を超えて、冥府、とは言わないまでも現世とは違う「異世界」に突入した。
それを暗示するシーンだったんじゃないかと。
更に、その先のシーンを見ると、二人の足元には「水辺」があります。
これがつまりは、三途の川の(現世から見て)対岸にいるという表現です。
そして決定的なのは、ポム爺さんの「小鬼がおる」という発言。
これで完全に繋がりました。
あのシーンは、かなり高い確率で、意図的に冥府、少なくとも「異世界」を描く動機があったはずです。
(ちなみに、鬼=異世界という話ではないです。鬼と冥府との関係が分かれば、多少このあたりのビビッっと感は理解していただけるはず。。)
これだけ物証がそろっているのですから、その可能性は限りなく高い。
では、その設定においてポム爺さんとは何者なのかというと、つまりは「渡し守」です。
現世とあの世を繋ぐ存在。つまり橋渡し役であり、ストーリーの進行役。
実は古今東西、渡し守というのは老人の姿で描かれることが多いのです。
振り返ると、ポム爺さんはその知恵をもって過去と現在(つまりは飛行石の正体)を橋渡しし、
更には道案内によって二人を冥府から現世へと送り返す、橋渡し的役割を担っている。
ストーリー展開的に、かなりのキープレイヤーです。
これはもう、確信犯ですね。
そして、仮にそういった前提(地下=冥府)に立つと、あの有名なシーン、
つまり「半分に分けた目玉焼きトーストを、さも美味しそうに食べる」場面が、かなり奥深いものだと感じられます。
なぜなら、冥府、つまりは死の世界で、生の象徴とでもいうべき「ご飯」を食べているのですから。
しかも美味しそうに、生き生きと。
このコントラストたるや。。
やはり、少なくとも自分の中では、
ラピュタというのはあらゆる意味での「相反する二要素の共存(しかも、かなり危ういバランスを伴って)」が、最大の魅力なのだと思うのですよね。
これは意図的なのか、結果的にそうなったのか、はたまた全く見当違いなのか。
あー、知りたい。。