こんばんは、天野隆征です。
ついに1週間を越えました。ラピュタシリーズ。
ここまで来るとちょっと気持ち悪いですが。。がしかし、まだ書きます。
こういうのはちゃんと書いておかないと、自分の肥やしになりませんので。
今回は、アニメという表現手法に関係する気づきです。
小説、マンガ、実写などなど、世の中には様々な物語の表現方法がある訳ですが、その中でアニメの一番の特徴は、
やはり「アニメーション」の語源である、英語で言えばAnimate、つまり絵に「生命を吹き込む」ことができるということ。
脳をだますと言いますか、脳が元来持つ「補正機能」をうまく使って、
連続的な架空の絵の集合でしかないものを「動いている」ように見せ、あまつさえその世界観に没入させたり、登場人物に共感させたりさせたりできる。
(…これを突き詰めて考えると、そもそも人間が体験する現実とか世界というのは、一体何なのかと少々危ない方向に走りそうになりますが、、今回はそっちには行きません)
しかしそのためには、作者と鑑賞者の間に共通の約束事が必要になります。
なぜなら脳の「補正機能」とは、不完全な映像を経験上見知った動きやパターンに当てはめて補うということであり、つまりは一定量の経験値がいるからです。
まったく見たことのない動きに対して、脳はその補正機能を十分に発動させられません。
その意味で、アニメとはある一定の約束事(経験値)の上に成立する映像表現であり、仮に描画そのものでそれを満たせない場合、何らかの要素で補ってやる必要性が生じる訳です。例えば効果音とか。
そのことがよく分かるのが、フラップターの羽ばたき表現です。
もう少し言うと、羽ばたくときの「ブーン」という音。
もう何度もラピュタを観ているので「フラップターは羽ばたくものだ」と、もはや脳が記憶してしまっているのですが、
あれを所見で、しかも効果音なしで観たら、一体どれだけの人が「羽ばたいている」と認識できるでしょうか?
描画としてはものすごく素晴らしいと思います。
小刻みに動く羽根を、白いブラシのような線でシュシュっと表現して、しかも重力に負けてときどき機体が下に落ちる。
凄い表現です。
ただ一方で、鑑賞者の側に「小刻みに羽ばたいて飛ぶ」ものを観察してきた経験があまりにも希薄なので、
あれを絵だけで「あー、この機械は虫みたいに羽ばたいて飛んでるのか」と瞬時に判断させるのは、上述の通り原理的な限界があるんですよね。
それを補っているのが、「ブーン」という音。
あの音と、羽のシュシュっとブラシ表現が合わさった瞬間、「あー、フラップターはハエみたいに羽ばたいてるのね」と一発で分かります。
(しかもハエのイメージと、お宝に群がる海賊のイメージがピッタリ符合して、特に冒頭の客船を襲撃するシーンではものすごくいい味を出しているという)
何だか眉唾っぽく思われるかもしれませんが、
そういう意図があった(であろう)ことが分かる、あるパターンがあります。
何かと言うと、作中でフラップターは「①前後の羽根が両方とも止まる(滑空orブースト飛行状態)」「②前後どちらかが羽ばたいている」「③前後両方羽ばたいている」の3パターンで描かれるのですが、カットがパターン③のフラップターで始まる場合、必ず「ブーン」という効果音が伴うんですよね。
(逆に、①②で始まるカットの場合、③に移行しても必ずしも「ブーン」と鳴っていなかったりする)
絵だけでは経験的な限界が出てしまうフラップターの羽ばたき表現を、音で意図的に補っている。
憶測でありつつ、結構いい線行っているんじゃないかと思うんです。
これは小説にも結構応用ができると思っています。
ある場面のイメージ、つまり色や、温度や、匂いや、雰囲気などを、できるだけ忠実に読者に想起させようと思う場合、まず考えられるのは「詳細に記述する」ということ。
ただこれではダメな訳です。説明的になりすぎて逆に色を損なってしまう。かえってマイナスです。
そこで、言葉を減らしつつ忠実なイメージを伝える手段の一つとして、「擬音語」が使える訳です。
もちろんそれだけではありません。
言葉や表現そのものが持つイメージだったり、ナンだったりカンだったりを巧みに組み合わせて情景を想起させるのが小説の表現だとは思っていますが、とはいえ擬音語は端的で直感的にイメージが伝わる、なかなかに素晴らしい道具だと思うんですよね。
小説以外の表現手法から盗める、学べることって、結構多いんですよね。
(というより、単に小説のメソッドを知らないというだけなのか。。)