【その④】久々にラピュタを観て思ったこと | 天野という窓

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こんばんは、天野隆征です。

 

今回は、前回引き延ばした、ラピュタのあるシーンについて。

 

それは具体的には、作品もクライマックスに差し掛かった、セリフ的には

「見せてあげよう、ラピュタの雷を」~「人がゴミのようだ!」にかけての、ムスカ暴発シーン。

 

このシーン、どう考えてもやりすぎなんですよね。

近海に「雷」を放つのは良いとして、その後

 

閣下を筆頭に手近な兵隊をことごとく落下させる

 ⇓

ロボット兵を解き放ち、無抵抗な兵士を虐殺

 ⇓

反撃してくるゴリアテを、一方的に破壊

 ⇓

落下する人を見て「人がゴミのようだ!」と言い放つ

 

一方的に、徹底的に兵士を大量殺戮していくんです。

これは「子供向けの冒険活劇」としてはもちろんですし、その後のストーリー展開を考えても不要(こうである必要性はない)、明らかにバランスを書いています。

 

ラピュタ全体のストーリーからしても、

このシーンはかなり浮いていて、異質です。下手をするとこのシーンのために作品全体が崩壊するんじゃないかというくらい、バランス的に相当危ういことをやっていると思います。

(もちろん、子供の鑑賞を想定した作品でここまで徹底的に殺戮をすることも、PTA的な意味で十分危ういとは思うのですが。。)

 

そしてこのシーン、

少し前にさかのぼると、ムスカが『旧約聖書』と『ラーマーヤナ』を引用するところがあるのですが、この発言が更に作品の設定を危険にさらしているんですよね。

なぜかというと、ラピュタの雷がこれら書物に書かれているということは、当然書物の編纂前からラピュタは存在していることになりますが、一方で別のシーンでは「ラピュタは700年前に滅びた」と言っているんです。

 

めちゃめちゃ矛盾です。

『旧約聖書』と『ラーマーヤナ』は共に紀元前の書物ですから、仮にそこから700年ということならラピュタの世界観は西暦700年ごろのはずですが、どう見たって18~19世紀あたりです。

逆に18~19世紀を基準にするなら、ラピュタが滅びたのは12世紀ごろ。バリバリ有史ですし、1200年以上も天空に浮かんでいたなら、たとえ700年が経過していたとしてももう少し知られた文明であるはず。

 

ここでも、崩壊が起きているのです。

 

では、表面的に、

これら作品崩壊の危機という「代償」によって獲得した「成果」は何だったのかというと、

 

・誇大妄想卿:ムスカの狂人具合を証明

 →シータに「あ、こいつは生かしておいたらやばいな」と深く印象付ける

・ラピュタの破壊的科学力を誇示

・快活さと相反する要素の投入による深みの演出

・ショッキングなシーンによる印象付け

 etc.

 

大まかにはこんなところでしょうか。

…なんだか割に合っていないですね。作品全体を危険にさらすリスクを負った割には、小さな成果です。

 

これ、自分が「観る側」でしかなかったときは全然意識しなかった視点ですが、

物語を「創作する側」になると、結構意識するんですよね。

宮崎駿監督を筆頭に制作陣もきっと、そのような計算はされていたはず。

(またまた偉そうなことを。。あくまで個人的書き留めとして書いておりますです。。)

 

そう考えると、このシーンの「成果」とは、もっと違うところにあるはずなのです。

そうして突き詰めると、やはりこれは戦争、特に第一次世界大戦以降の破壊的戦争に対する、宮崎駿監督の「思い」だと思うのですよね。

 

順を追って説明しますと、

まずラピュタの雷とは、つまりは核兵器だと思うのです。これは何となく直感でもピンとくると思いますが、冒頭の『旧約聖書』や『ラーマーヤナ』を引用した背景としては、そのことを匂わせる意図も多少あったんじゃないかと思います。

(オカルト的には、ソドムとゴモラを滅ぼした火、そしてインドラの矢というのは古代の核兵器だと、まことしやかに言われていますので)

 

そして、続く兵士の大量殺戮。

第一次世界大戦以降の、人間が尊厳なく、文字通り「ゴミのように」死んでいく戦争のあり方が、隠喩としてあると思います。

 

パズー達の生きる世界観、ラピュタの本来の世界観では(おそらく意図的に)忌避してきた戦争のあり方を、このシーンで集中的に描写している。これが核心なのではないでしょうか。

 

戦争という、言葉では言い表せない程の残虐性をきちんと伝えたい。

恐らく宮崎駿監督にとっては、それは作品全体を危険にさらしてでも表現したいテーマであり、「代償」に見合う「成果」だったのではないか。

 

そう考えると(本当にそうなのかはわかりませんが)、

この作品が今まで以上に、尊く素晴らしいものに思えます。

 

実は、前々回あたりで書いた「行き過ぎた科学はよくない。土にかえろう」という主張は、

オープニングの時点で十分すぎるくらい描かれているんですよね。

(あのオープニングは本当に素晴らしいです)

 

ラピュタで描きたかった、裏でありつつ本当のテーマ(監督の個人的テーマ?)というのは、

この一見不整合なシーンに凝縮されているのではないか。

 

そんなことを思った今日この頃です。