こんばんは、天野隆征です。
何年かぶりに「天空の城ラピュタ」を見て気がついた、ラピュタの特徴であり魅力。
それは辛うじて均衡した、危ういアンビバレントさです。
そもそもそれは、何を隠そう、天空に浮かぶラピュタの造形そのものに、
見事に体現されているではありませんか。
ラピュタは、上に大木と古典的建造物の遺跡、下に科学の結晶が詰まった無機質的なドーム、という非常に異質なものの組み合わせでできています。
決して調和している訳ではない。上には燦燦と日が注ぎ、下は陰というか、非常に冷たく硬質である。
異質なものが組み合わさって、辛うじて一つのものとして綱渡り的なバランスをとっている。
しかも、ラピュタは最終的に、下部を中心に崩壊して最後は木だけになって天上に昇って行ってしまう。
これを、(宮崎駿監督の、自然と科学への考えの表れにとどまらず)作品のあり方そのもののメタファーとして捉えるのは、考えすぎでしょうか…?
もう少し別の視点で見てみると、
この作品の主張するところは、(行き過ぎた)科学文明への警鐘であり、シータのセリフ「土から離れては生きられないのよ」に象徴される、言ってしまえば自然や農耕文化への回帰だと言えると思いますが、あの登場人物の中でそのような生き方をしているのが、シータしかいない。
もう一人の主人公であるパズーはというと、鉱山の人間であり、機械工である。
鉱山とはある意味、産業革命によって大きな需要が生まれたものであり、機械工は文字通り機会を仕事にしている訳です。
そして何より、ある意味科学文明(機械文明)の象徴たる飛行船が無ければ、この物語は成立しませんし、
機関銃だの大砲だのリボルバーだの、科学文明(機械文明)の結晶とでも言うべきものをボコスカぶっ放している訳です。
何やかやで、科学文明(機械文明)の恩恵にあずかっている。
しかし、この矛盾は破綻はしていないのです。
非常に危ういバランスでありながら、ある均衡点で、それはバランスされている。
かいつまんで表現するなら、
「行きすぎた科学文明はよくないけど、機械文明というか、時代的には19世紀くらいのあり方って、いいよね」
ということだと思います。
具体的には、飛行機械であれば「飛行機」ではなく「飛行船」くらいの発展度合い。
よく見ると、ゴリアテもタイガーモス号も、冒頭で出てくる客船も、みんな飛行船なんですよね。胴体にガスを充満して、それによる浮力で空に浮き、プロペラを推進力に動くという。
(ちゃんとした設定資料を見た訳ではなく、あくまでも作中の造形やセリフから判断しているのですが)
滑走路が必要だったり、ジェットエンジンを積んでいたりしてはいけない訳です。
兵器で言えばリボルバーであり、ボルトアクションライフルであり、水冷式機関銃である。
これがオートマチックであったり、空冷式であったりするのは「行きすぎ」な訳です。
総合して考えると、人間と科学(機械)との関係において、
人間側に主導権がある、言い方を変えれば「人間的」なギリギリの世界を描きたかったのじゃないかと思います。
その証拠、という訳ではないのですが、
この作品の機械の(特に味方側の機械の)造形や描写からはフェティッシュと言うか、機械を人間のような、というより生き物のような躍動性をもって表現したいという、非常に強いこだわりを感じるのです。
とはいえ、客観的にはやはり、矛盾と言うかアンビバレントな感じは否めない気がします。
デジタルに思考すれば破綻に陥ってしまう。そんな危うい世界を、絶妙な設定とディテールと、なにより強い意志で(辛うじて)成立させている。そんな危うさが、もしかしたらこの作品の魅力の一つなのかもしれません。