小説とパンツ | 天野という窓

天野という窓

渋谷で働くサラリーマンのもう一つの顔、小説家:天野の日常を綴るブログです

こんばんは、天野隆征です。

 

前回は、小説=作者の内面を映し出す鏡であるという点に関して、

どちらかというとカッコイイ面について書かせていただきました。

 

今回は、前回匂わせました「コッパズカシイ」面について書かせていただこうと思います。

 

それは何かというと、小説には作者の無意識のフェティッシュといいますか、

趣味嗜好がそのまま反映されてしまうということですね。

 

例えば、ヒロイン的な女性像を描こうと思った場合、

容姿はもちろんのこと、職業や年齢、髪色やヘアースタイル、仕草に至るまで、いつの間にか「自分の好み」が反映されていることがあります。

 

また、もちろんのこと、主人公や登場人物は、

多かれ少なかれ、自分自身の分身であるわけです。

 

「わあ、やばいやばい」と気がついて校正をかけられれば良いのですが、

多く場合、「自分の好み=良い」という力学が働き、そのまま出てしまうことの方が多いです。

 

そんなことが、ありとあらゆる方面で出てくるわけです。

これは非常にコッパズカシイです。

 

いうなれば、公衆の面前でパンツを下ろすがごとくです。

 

実は、ある映画監督の方が著書で似たようなことを仰っていて

「あー、やっぱりそうだよな」と変に合点がいったことがありました。

 

表現活動の宿命と言いますか、本当にびっくりするくらい、

素の自分、虚飾のない裸の自分が出てしまうのです。

 

それを消しに行くのか、そのまま生かすのか。

いうなればパンツをいい具合にキープするのか、思い切って下げてしまうのか。

(なんとはしたない)

 

私は良いのです。なぜならペンネームで守られていますから。

万一天野隆征が傷ついても、もう一人の私は無傷でいられます。

 

一方で、映画監督などは本名の場合も多く、しかもはるかに多くの聴衆の前に晒されるわけです。

見方によっては「公開処刑」以外の何物でもありません。

…すさまじい覚悟ですよね。

 

公衆の面前でパンツをずり下げる勇気。

表現活動、もとい小説を書くという行為には、ある種そういったものも、少なからず求められるのかもしれない。

 

許容量を超えたアルコールによって弛緩した脳みそで、私はそう考えるわけであります。