【いつまで続くのか】インスピレーションの源泉 | 天野という窓

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渋谷で働くサラリーマンのもう一つの顔、小説家:天野の日常を綴るブログです

こんばんは、天野隆征です。

 

今回は、一本の長編小説の執筆を通して

「最初のインスピレーションの小説化」は保留せざるを得ない、という結論に至った背景について書き残しておきたいと思います。

 

前回も触れたとおり、その理由は燃え尽きたとか、己の限界を悟ったとか、そういう消極的なものではありません。

むしろ意欲という観点では、一本の長編小説を書ききったという「突き抜け感」によって、一層強化されたのです。

(ここでは触れませんが、「なぜ俺はこんな苦しい思いをしてまで小説なんて書くんだ、、」という葛藤については、この長編小説を書く過程でひとまず一巡しております)

 

そして、短編・長編の二本を書ききったことにより、

小説を書くという「行為」については、ある種の自信と手ごたえを得るまでに至りました。

(無論「技術水準」という意味では、まだまだ道半ばではありますが)

 

では、保留の理由は何なのか?

それは、小説を書く「意味」に言及しなければなりません。

 

長編小説を書きあげる中で、

小説を書くには(少なくとも)3つの意味が必要であることに気がつきました。

 

①その物語を自分が書く意味

②その物語を小説で書く意味

③その物語を「今」書く意味

 

①②についてはある程度自信があります。

その題材について私より詳しい人間はゴマンといるでしょうが、物語として、しかも今思い描いているような物語として書けるのは自分だけに違いないと思って(思い込んで?)いますし、動画やマンガが湯水のように垂れ流されるこのご時世に、あえて小説という形式で物語を創造する意味については、それなりに考えがあります。

(長くなりすぎるのでここでは言及しませんが)

 

では、③についてはどうか?

これこそが、「最初のインスピレーションの小説化」を保留させた理由なのです。

 

特に長編の場合、これがクリティカルに要求されるように思います。

 

長編小説というのは、何というか、

現在、あるいは現在の帰結として想定される将来に対する、ある種の「叫び」無しには生命を吹き込めないと思うのですね。

 

無論、短編にもそれは少なからず当てはまりますが、

実は短編に関しては、③についてはある程度広範に設定できる気がしています。

(それが短編の面白さであり、短編を書く意義だと思っているのですが、これも長くなるので深くは言及しません)

 

「面白いイメージが浮かんじゃったので、小説にしました」

では長編小説は書けない。

 

いや、書くことはできるのですが(実際この長編小説も、書こうと思えばいくらでも書くことはできるのですが)、そこに命を吹き込むことができない。

そのことに気がついたのです。

 

もしかしたら、私が書き手としてもっと熟達したら、そんなことなく容易に生を与えられるのかもしれません。

しかし今の私には、そうは到底思えない。

 

…いずれにせよ、そんなこんなで一度、この小説は眠らせています。

 

というより、熟成させています。

今もときたま、その「意味」について思いを馳せますし、いずれその時が来ると、信じていますから。

(私が小説を書くことをやめなければ汗)

 

…さて、長くなりましたが、

「インスピレーションの源泉」はこれでおしまいです。

 

数年の後、この記事を見返した自分が何を思うのか、今からとても楽しみです。