おごめ~ん、大分のtakatch親方です(`・ω・´)ゞ
由布院の有名観光スポット言えば…??
…「金鱗湖」

では、この「金鱗湖」という名称を付けた人物は??
…そう、「毛利空桑(もうりくうそう)」さん
…では、毛利空桑さんって、どんな方??
鶴崎の三哲のおひとり(ほかには、「脇蘭室(わきらんしつ)」、「秋山玉山(あきやまぎょくさん)」)。
儒学者・教育者として大活躍。
儒学者・教育者として大活躍。
文武両道を説きました。
幕末から維新という国の大転換期に、重要な存在であったともいわれます。
幕末から維新という国の大転換期に、重要な存在であったともいわれます。
その毛利空桑さんについて、以下詳細をご紹介!
はじめに
1)毛利家がなぜ鶴崎にあるのか?
空桑の先祖は、あの毛利元就公の弟。
兄の元就公が藩主となり、身を案じた弟が、中津などを転々とし、最後には鶴崎方面へ。
兄の元就公が藩主となり、身を案じた弟が、中津などを転々とし、最後には鶴崎方面へ。
2)鶴崎の歴史
もともと、鶴崎は豊後の領地。
大友家の家臣、吉岡氏(妙林尼公の籠城で有名)が鶴崎を治めました。
その後、1601(慶長6)年、熊本藩の飛び地へ。
その後、1601(慶長6)年、熊本藩の飛び地へ。
これは、関ヶ原の戦いで功績のあった加藤清正公が、徳川家康公から与えられたものです。
なぜ清正公は、天草ではなく、この鶴崎を求めたのか。
…鶴崎は、海に面しており、上方へ渡るには絶好の要衝だったためです☆
鶴崎城は、肥後熊本藩の豊後鶴崎お茶屋(役所の出張所)が置かれました。
▽法心寺では、清正公を祀っております☆(2014年のJR九州ウォーキングにて)


なぜ清正公は、天草ではなく、この鶴崎を求めたのか。
…鶴崎は、海に面しており、上方へ渡るには絶好の要衝だったためです☆
鶴崎城は、肥後熊本藩の豊後鶴崎お茶屋(役所の出張所)が置かれました。
▽法心寺では、清正公を祀っております☆(2014年のJR九州ウォーキングにて)


空桑の出生と修学
- 1797(寛政9)年、常行村(現在の鶴崎地域の一部)で生まれる。
- 小さい頃から、物事に動じない気力があったそうだ。
- 14歳の時、儒学者である脇蘭室先生の塾:煙霧楼(えんかろう)に入門。漢学、尊王攘夷を学ぶ。
- 17歳の時、当時46歳の脇蘭室先生(当時人生50年の時代で高齢)は、自身の体調と、空桑の秀才を考慮。弟子の帆足万里先生(日出)の塾に入門させ、思いを託した。
- 万里先生のもとで、6年間学習。
- 万里先生の門下生は200人以上だが、その中でも「帆門の四天王」の一人となった空桑。
- 学問に励みつつ、大嶋平太夫に付き、武道にも励む。
cf:空桑は、万里先生の柿の木から柿を盗む→バレて、木に括り付けられ、最後には破門。。。 - 1819(文政2)年、万里塾を後にし、熊本へ。
肥後藩の学者:大城霧平(おおきかへい)先生に習い、学問&武道に励む。武道は師範レベルまで到達!
cf:本来は、藩校の時習館で学びたかったが、派閥の違いで断念。。。 - 1823(文政6)年、大城の門を後にし、帆足万里・広瀬淡窓の紹介状をもとに、福岡へ。福岡藩の学者:亀井昭陽先生に学ぶ。昭陽先生も、空桑の秀才と努力を認め、大事に育てた。
- 空桑は福岡修学中、特別に長い刀(4尺3寸=1.38m)を差し出す。
昭陽先生は、空桑のことを「長刀公」と呼び、出かけるときはいつも空桑を連れていきました。福岡の街の人は、空桑を見ると、「それ肥後の居合抜が通る」と言ったそうな。 - 28歳の時、父に呼び戻され、常行へ。私塾「知来館」を開き、後進の教育も開始。
尊王攘夷(身分制を廃しみんな平等)の精神を教育。その後、藩主からの要請→参勤交代で鶴崎に来たお供の兵士の教育も行うように。 - 38歳の時、鶴崎の国宗地区(現在記念館のある辺り)でも塾を開く。
空桑の教育と暮らし
- 「知来館」では、文武両道を基本に据え、いわば塾+武道場が一体となった環境。
「文ありて、武なきは、真の文人にあらず」
「武ありて、文なきは、真の武人にあらず」 - 61歳の時、藩から土地とお金を頂き、現在地の鶴崎七浦(七軒町)に、居宅:天勝堂&塾:知来館を移す。本格的に文武両道の教育を開始。
すると、地元の鶴崎だけでなく、九州・中国・四国、遠くは新潟・福井・岐阜などからも入門者あり。門下生を1,000名ほど育てた。 - 64歳の時、肥後藩である鶴崎にも藩校が必要と説得。
藩&地元有志の協力を得て、「成美館(せいびかん)」(のちの鶴崎学校・現在の鶴崎小学校)を設置。 - 暮らしでは、質素・倹約・粗食に努める。人生50年といわれた当時に、空桑は88歳まで生きた。その原動力にもなったのかもしれない。
また、こうした自分の暮らしを塾生に見せるのも、教育だと考えていたのかもしれない。
空桑の明治維新をめぐる働き
- 世の中が激変する中、空桑は大きな役割を果たした。
→県内の各藩(臼杵・府内・佐伯・岡・森など)は、激動する国内情勢をつかみ切れず…。幕府側or天皇側どちらにつくかを迷い、空桑に意見を求めた。 - 空桑自身も、長州の吉田松陰はじめ、各地の思想家や学者を手を結び、もっとよい世の中を目指そうと働きかけるも、困難も多かったようだ。
- 1881(明治16)年、国会開設のころ、鶴崎に「天壌社」という政党を結成。県内では初の動き。新時代にふさわしい運動を起こした。
空桑を取り巻く周辺の動き
- 1870(明治3)年、長州内で様々な勢力争い発生。
そのうち、大楽源太郎一族が争いに敗れ、空桑に助けを求めた。空桑は一派を鶴崎などに匿った。
しかし、そのことが藩主にばれ、子どもとともに熊本の牢屋へ。給料も士族の位も奪われた。 - 牢獄中、空桑は、ネズミを捕まえてその毛を筆とし、食事に出されるお椀の漆を剥いで墨とし、奥様へ手紙を送った。空桑のほとばしる気力が感じられる→空桑は高齢のため、1年で保釈。子どもたちはその2年後に保釈。
- 勝海舟や陸軍中将の谷干城が、空桑のもとを訪ね、相談したそうだ。
- 1883(明治16年)、由布院にある息子経営の温泉旅館で療養。その時、夕日に照らされている池を眺めると、魚が飛び跳ね夕日にきらりと輝き、きれいだったことで、「金鱗湖」と命名。
- 空桑は、88歳で没。当時ではたいへんな高齢で天寿。
毛利空桑記念館
- 記念館は、天勝堂+知来館+遺品館の3つからなる。
- 昭和45年、天勝堂と知来館は県史跡に。→当時は、毛利氏所有だったかが、管理の問題から、大分市へ寄贈。
- 昭和59年、空桑没後100年祭で、遺品館や思索の道、銅像が建設。


…以上が、毛利空桑のご紹介です!
幕末~維新期の激動時代に、重要な存在だったのですね☆
その存在となるために、若いころから文武に励まれ、師匠にも恵まれという印象ですね。
こうした偉人が、地元大分で誕生ということを、もっと知り、PRする必要があると感じました。大分は、まだまだ奥が深い!
なお、来月12月17日(日)には、大分学研究会おおいた遺産モニターツアー開催!
毛利空桑記念館をはじめ、大友氏遺跡・帆足本家・大銀ドーム・万寿寺といった大分市内のおおいた遺産を巡ります♪
毛利空桑記念館をはじめ、大友氏遺跡・帆足本家・大銀ドーム・万寿寺といった大分市内のおおいた遺産を巡ります♪
以上、はなはだ簡単ではございますが、毛利空桑のご紹介でした☆
大分学検定参考書紹介動画→https://youtu.be/jzqZJHiXh_4
☆「大分学✎」動画集→https://www.youtube.com/playlist?list=PLCP8H0iqHBwAnOg6sAM1WMnLYfWzTj4Zm
