心を静かにするのは最大の努力である | 午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

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時事問題から思想哲学に至るまで、世間という名の幻想に隠れた真実に迫る事を目的とする!

テレビのバラエティ番組も命がけだ。
視聴率を取りたいものだからアレやコレやと企画する。

番組名は覚えてないのだが、最近のネットゲームのように「クエスト」をクリアーすると賞金が貰えるというもの。確か100万円だったと思う。

だが、そのクエストの内容が常軌を逸している。

2基の気球を飛ばして高さ1000メートルぐらいまで上昇し、その間に幅が僅か数センチの板を掛けて橋を作り、そこを渡り切るというものだ。勿論、地上にクッションを用意されている訳でなく、命綱を装備されている訳でもない。

もしもこれが高さ50センチメートル程の場所なら難なく渡れるだろう。

しかし、高さはその遥か上空になる。しかも橋を繋いでいるのが2基の気球であり、天候の影響を受けるので固定ではないのだ。晴れていたとしても強風は免れない。

よくもまあ、こんな馬鹿なことを考えつく者がいるものだ。で、名前は知らないが、若い男性タレントだったと思う。橋渡りに挑戦するのだが、やはり途中でリタイアしてしまう。そりゃそうだろう、落ちれば即死だ。大方の人間なら下を見た瞬間に恐怖にかられ、二度と気球なんかに乗りたくなくなるだろう。落ちてもないのに、吸い込まれるような恐怖感が襲ってくるのだ。

ところがこのままでは番組的に面白くない。

なので、リベンジの機会を与えてもう一度やらせようとする。当然ながら、タレントは二度と乗りたくないと怯えている。すると、どこぞの誰かから携帯電話で腰抜け呼ばわりされる。電話をかけてきた相手は、多分、出川哲朗氏だったと記憶している。

何度も馬鹿にされたものだから、そのタレントの気持ちに火がつく。
そして、もう一度チャレンジして、見事に渡りきったという訳だ。

怒りが恐怖を上回ったのだろう。
僕もまた、そんな経験をしている。何度もね。

どんなに過労しようとも、どんなに睡眠不足になろうとも、どんなに精神的に追い詰められようとも、どんなに冷遇されようとも、どんなに恐怖に怯えようとも……怒りというものは、時に全てを帳消しにしてくれることがある。それが世間の人間全員に向けられたものなら、なおさらエネルギーを得る。フラフラになっていた身体も嘘のように覚醒する。

しかも、通常よりも状態が良くなる。無敵である。
オレはどんなものに対しても恐れない」になる。

但し、これは怒りが直接作用したものではない。
怒りという媒体を介して、心が「」に近くなったからだ。
極真空手の創始者・大山倍達は、こういった。

喧嘩に勝ちたいのなら、先に命を捨てたほうが必ず勝つ

僕は経験上で知っている。

だが、「無」になろうとするその動機が、まこと喧嘩に勝ちたいからとか、スーパーサイヤ人のように怒りによって力を得たいからとかでは、賢い者のすることではない。

そんなことをせずとも、心を静かにすればいいのだ。

最近では、サッカー日本代表がW杯出場を決めた対オーストラリア戦が印象深かった。
1点ビハインドの場面でPKのチャンスを獲得した。これを外せば負けが決定する。しかし、決めれば同点となり出場がほぼ決まる。そんなプレッシャーの中、キッカーの本田圭佑は、キーパーのいるど真ん中に蹴り込んで決めた。

彼にとっては、例え外したところで、自分が何を言われようが、どう叩かれようが、どうでも良かったのだ。とにかく蹴って外したのなら、仕方がないという感じだった。

この時の本田選手は、珍しく心が静かだったのだ。

心を静かにするのは最大の努力である。上記のように喧嘩や怒りの力を借りるのではなく、努力によって静かになれたのなら、迷いもなくなる。むろん、この努力というのは己一人の力で為しえられるものではない。だが、素直に神様に任せれば出来るだろう。

神様に任せるということは、誰の力も己の力にも任せないということだ。

僕にとっての努力とは「どんな時にでも淡々と生きる」ということ。
何があってもブレない。迷わない。地位、名誉、誘惑、どうでもいいとなる。

その為には、心を静かにせねばならない。
しかし、それが動機になると静かではなくなる。

「祈り」というのは静かになれる方法のひとつだ。

これは、わざわざ教会や神社にいって「どうか心が静かになれますように」と願うものではない。こんなものは無いものねだりだ。無いものを願っても叶えられない。

だが「叶っている」ということを知れば、心は既に静かになっている。

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