「迷惑をかけるな」に我思う | 午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

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「いいかい、人様に迷惑を掛けない立派な大人になるのですよ」

物心がついた頃からこのように教えられる子供。教えているのは周りの大人ということになるのだが、最もなところでは親であり、学校の教師になるだろう。だが、ここで矛盾が生まれる。真っ先に迷惑を掛けているのは教えている大人たちのほうだと判る。

なぜなら、「迷惑」というものを以下に定義しているからだ。

1 ある行為がもとで、他の人が不利益を受けたり、不快を感じたりすること。また、そのさま。「人に―をかける」「―な話」「一人のために全員が―する」

2 どうしてよいか迷うこと。とまどうこと。

Yahoo!辞書より抜粋)

もうお分かりだと思うが、1と2には共通点がある。
どちらも「受けた側」なのである。

不利益」とは利益にならなかったり、損になったりすることだが、本人がそう思わなければ不利益にはならない。極端な話をすれば、物質的に損をしても、代わりにそれ以上の貴重な体験を得られたと本人が思った場合や、「雨降って地固まる」などがそうであろう。

不快を感じる」とは、言葉通りである。
2の「迷う」や「とまどう」もそうなのだが、全て受け手の問題なのだ。

「晩御飯は何だろう」と楽しみに帰ってきた子供がいざ食卓を覗いてみれば、そこには何と嫌いなピーマンが並んでいる。思わず不快に感じることだろう。また、「外で遊んでばかりいないで、ちゃんと勉強もしなければ立派な大人になれないよ」と母親に注意された子供は、「ああそうなんだな」と思いながらも心の隅では戸惑うかも知れない。夜も寝静まった頃なら、父親のいびきとか無意識に発射されるオナラとかに嫌悪感を示すかも知れない。

今度は逆のパターンだ。

生後間もない赤ん坊も、大人しくしている時や、笑っている時や、懐いてきたりする時は可愛いものだ。が、しかし、泣かれたり、尿を垂れ流されたりすれば、身内であっても不快は感じるだろう。更に夜中にでも起るものなら、それこそ大変だ。

まあ、どちらにしても迷惑をかけているのであり…
迷惑とは「受けた者」によって判断されるのである。

そして、受けた者が「迷惑だ」と判断している根源はどこにあるのかといえば、「心」の場合もあるし「本能」の場合もある。

今度は逆に、迷惑をかけた側の者が必ずしも行為者なのかといえば、そうとは限らない。
生まれついての顔が嫌いで不快感を示されたり、異臭がしたり、生理的に迷惑だと思われたり、「理由はないが、存在自体が迷惑だ」とされたりする者だっているだろう。

従って「人間は誰しも生まれた時から迷惑をかけている」のである。
生きている時だけではない。人間は死んでからもなお迷惑をかけ続けるのだ。

こんな話をすれば…

「じゃあ、人様にいくら迷惑をかけても構わないんだ」と屁理屈を垂れる者や、「何で迷惑をかけたらいけないのか?」と実際に迷惑をかけて試そうとする者が出てくるだろう。だがね、こんなものは人殺しの実験をする者と思考が変わらないのだ。

だから、「人様に迷惑をかけてはならない」という言葉をそのまま受け取らないほうがいい。

分かりやすく言えば、「人もまた迷惑をかけている生き物だ」ということを理解した上で、
自分自身がされて嫌なことを相手にしなければいい」のである。

が、しかし、これも嫌なことの尺度が人によって違うので、こちらにとっては何気ない事でも、相手からすれば迷惑だと感じることが多分にある。また、全く同じ行為を同じ相手にした場合でも、迷惑になる場合とならない場合がある。

例えば、セックス。これは双方が同意するから成り立つのである。どちらか片方でも同意しなければ、セクハラ、強姦、レイプ、といった犯罪行為になり、迷惑どころではない。また、互いが同意していたとしても、密室になっておらず、不特定多数が出入りしたりするような相応しくない場所での行為は、それ以外の者にとっての迷惑になる。

従って、これらを総合してみると…
時と場所を弁えているかどうか」になる。

弁えてない上での迷惑行為はご法度だが、時と場所を弁えた上での行為なら「迷惑だ」と言われても、さほど気にする必要はない。むろん、自分では弁えているつもりでも、実際はそうではないこともある。しかしながら、こういうのは後で気づくことである。

同じことを繰り返さなければいいのだ。

一方で、どうみても相手の偏見や心の持ち方で、迷惑だと取られることもある。
クレイマーという人種は、それの顕現であろう。

これについては、「原因は相手にあるのだから、向こうが改めればいい」と考えるもよし、また、「面倒だから、あまり関わらないようにしよう」と考えるもよしだ。但し、前者には期待が入っている。「人は人を変えられない」という真理を知っていれば、後でどういう結果になるのかは容易に想像がつくだろう。ならば、どちらが賢明かは言わずとも明らかだ。

他者の迷惑行為を反面教師にするのは、良いことだと思う。それとは逆に、一般には迷惑とされていない些細なことでも、自分自身が迷惑だと感じる事が多々あるのなら、それを判断しているのは、やはり「心」でしかないのだ。そして、こういう者がクレイマーになり、時と場所を弁えない迷惑行為を働くのである。

原因は色々とあるだろう。自制といるものを知らない場合があるし、精神に傷を負っている場合もある。どちらにしても、不必要に物を求めなければいいのだ。

人様に迷惑をかけるな」というのは、以上の迷惑と呼ばれることを体験を介して知り、自分自身の無知に気づいてそれを捨てていくことなのである。

いわばそれは、巡りめぐって己に迷惑をかけないことに繋がるのだ。

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