物には限度がある、だから一線を越えるな! | 午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

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先日、近畿地区で緊急地震速報が発令された。

震度7強の地震がやってくるのだという。
しかしながら、僕は不思議と落ち着いていた。

むろん、危機感が麻痺していた訳ではない。
あたふたしても始まらないからだ。

現場の建物内に居たので、取りあえず出口だけは開けておいた。

さて、いよいよ大地震がやってくる……
……だが、待てども待てどもそれらしき揺れは来ない。

どうしたものか。

どうやら、後で「誤報」だと判明したようだ。
気象庁はテレビを通じて謝罪していた。
ただ、これも物事の性質上、仕方ないことなのだ。

情報の正確さを求めると、覚知も遅くなる。
情報の素早さを求めると、誤報も多くなる。

問題は我々がどう受け止めるかだ。

誤報だと知って「人騒がせな」と腹を立てるのか?
それとも、地震が来なくて良かったと安堵するのか?
或いは、己の危機意識の甘さに気づけたと感謝するのか?

それこそ自由だ。

ただ、僕が思うに、我々が幾ら文明を発達させようとも、このような天災による危機を目の当たりにしてしまうと、やはり人間の力なんて微々たるものだと思い知らされる。

幾ら頑張っても人間には「越えられない領域」があり、自然には到底敵わないのだ。
では、なぜ我々は、このような不完全な存在として生まれてきたのだろうか?



古事記を読んでいれば、時々そういった疑問に答えてくれることがある。

例えば、先日にも触れたが、男神イザナギと女神イザナミの話がそうだ。
イザナミが生んだヒノカグツチとは炎の化身であり、産みの親である女神を焼き尽くす。

人類の歴史は炎…つまり「」を扱うことによって進化してきた。
いわば、火とはそれだけ強大な力を持っているということだ。

ならば逆もある。火の扱い方を間違えると自らを滅ぼしてしまう。火とは、いわば力の象徴だ。力はある意味文明を発達させてきたが、それ故に欲望を掻き立てる誘惑も同居する。力による物的満足に執着してしまうと、本当の豊かさ、大切なものが失われてしまう。

イザナミの死は、それを教えている。
つまり、物には限度があるということだ。

ヒノカグツチに焼かれ、死者となったイザナミは黄泉の国(死者の国)へ行く。
しかし、未練を断ち切れないイザナギは、そんな女神の後を追う。

男神は黄泉の国の入口から壁越しに、中にいる女神へ話しかける。
死者に話しかけた訳だ。因みに、この意味は以下にある。

現在でも仏像に向かって話しかけるという風習があるが、
古代の人々は、譬え死者でも言葉を交わせば通じ合えると思っていたのだ。

話を戻そう。

イザナミはイザナギの呼びかけに大変喜んだが、自分が「いい」と言うまで決して中には入らないようにいう。だが、イザナギは約束を破ってしまう。

男神が中へ入っていくと、そこには変わり果てた醜い姿の女神がいた。
怖くなったイザナギは、逃げ出してしまう。

物事に関心を示したり、努力することは悪いことではない。しかし…
決して一線を越えてはならないのである。

逃げたイザナギの話は、それを教えている。

ニニギとサクヤビメの間に生まれたホオリ(山幸彦)もそう。嫁のトヨタマビメが産室の中で我が子を生む際、決して中を覗かないようにいう。しかし、ホオリは約束を破ってしまう。トヨタマビメはワニ(サメ)に姿を変えており、ホオリに見られたことで子を放って海へ帰ってしまう。

やはり、一線を越えてはならないのだ。

我々人間が全能ではなく、また、生物的にあらゆる制限を受けているのは
そうした物の限度を知る必要があるからだろう。

限度を越え、一線を越えてしまえば、自他共に不幸にする。いわば、我々に不完全な身体や心(自我)が与えられているのは、その事を肌身で感じる必要があるからではと思う。

但し、それが正しいか正しくないかなんて、どうでもいいことだ。
ただ「最近はそう思う」…それだけの事である。